常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第二章 新しい石下地方の発展

第一節 町村制下の石下地方

町村には戸長一名を置くことが原則とされたが、大小区制廃止後大部分の町村は単独で存立することがむずかしく、連合村としてまとめられた。この結果現在の石下地方には明治十五年当時で、本石下村、新石下村、豊田村、古間木村、国生村、鴻ノ山村、尾崎村、原宿村の八か村が存在することとなった(Ⅱ-1図参照)。戸長は公選制で出発したが、明治十七年政府は戸長を再び県令の任命による官選制とした。そしてこれとともに町村の統合をはかり、戸長の所管区域を改正した。この結果当地方は本石下村、新石下村、皆葉村、鴻ノ山村の四か村となり、それぞれに戸長役場が置かれた。新しい四か村に統合された旧村をみると、次のとおりである(『茨城県市町村合併史』)。
 
  本石下村本石下村 豊田村 若宮戸村 館方村 原宿村 小保川村
  新石下村新石下村 東野原村 山口村 収納谷村 曲田村 大房村 平内村 本豊田村
  皆葉村皆葉村 鎌庭村 別府村 国生村 向石下村 篠山村 杉山村 蔵持村 蔵持新田
  鴻ノ山村鴻ノ山村 鴻ノ山新田 馬場村 馬場新田 五箇村 中沼新田 大沼新田 栗山新田
岡田新田 崎房村 孫兵衛新田 佐平太新田 古間木村 古間木新田 古間木沼新田


 

Ⅱ-1図 石下町合併図
(『茨城県史 市町村編Ⅱ』より)

 明治十七年の連合村成立当時町村の標準戸数は三〇〇戸を基準とされたが、豊田郡下では町村数七四(町一、村七三)で、このうち標準をこすもの一町、標準に近いもの二村、他は標準以下であり、一町村平均の戸数七〇戸、人口四四八人であった。岡田郡下は村数四九、このうちわずかに標準をこすもの一村、他の四八は全て標準以下であった。茨城県全体をみると、一町村当りの戸数では筑波・岡田両郡が五七戸と最低であり、最高は那珂郡の一二六戸であった。そして一町村当りの戸数は八四戸、人口は四九四人であったから、当地方の村々は大部分県平均以下の規模の町村であり、町村の基準とされた三〇〇戸には程遠い数字であった。
 さて当時戸長はどのような任務を有していたのであろうか。これについては明治十一年十二月に茨城県令から、戸長の職務要項として指令があった。その主な事項は、布告布達類を町村内に伝達すること、地租や諸税を取まとめて上納すること、戸籍・徴兵の事務に関すること、地券台帳・諸帳簿類の保管、小学校就学児童への勧奨、天災や災害時の処理と県への通報、河港・道路・堤防・橋梁等の修繕・維持に関することなどであった。そしてこれ以外は「府知事・県令又ハ郡区長ヨリ命令スル所ノ事務ハ、規則又ハ命令ニ依テ従事スベキ事」とされた(茨城県報丙第一四二号)。