常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第一章 近代への出発

第三節 産業の動き

明治七年の物産表にみられるところから、町域の産業における農業の圧倒的優位を動かすことはできない。しかし数多の河岸を有する鬼怒川が町域を貫流する石下地方においては、商業の存在も、無視することはできない。
 千葉県第十六大区四小区、下総国豊田郡大房村飯村九平は、「縞木綿、穀物、質物商法司」(明治七年四月「家録惣取調仕訳」)を営んでいたが、明治七年四月に「家録惣取調仕訳帳」を遺している。これは、この商家の、おそらくは一年分であろうが、営業の決算書とみるべきものである。
 明治七戌年四月吉日現在の収支は、つぎのようになる。
 
  一金百六拾七両一分 百廿六文        大福帳貸金
  一金四拾五両一分弐朱 九百三十一文     質帳貸金
  一金九百三拾九両一分弐朱 八貫九百十七文  京貸合物品
  一金九拾五両三分五十文           店物〆
  右四口〆金千弐百四拾七両三分 一朱 拾〆七百十六文
  内四百拾七両三分一朱 三百三十文      諸払分
  総差引八百三拾両 拾〆三百八十一文 為金八百三拾一両 三百八十一文
 
 決算当日までの未収金と在庫分(店物〆)で一二五〇両、未払金(諸払分)を差引いて八三一両というのは、かなりの大店である。質商としての貸金が四五両であるところから、商家の中心は縞木綿と穀物の売買にあったとみられる。とくにここで注目すべきことは、「京貸合物品」が未収金、貸金の四分の三に達していることである。鬼怒川、利根川、江戸川の舟運を利用して、東京の問屋に縞木綿や穀物を移送し、その売掛金が当期決算で四〇〇両を超えていることは、多量の物品が東京に流れていったことを推測させるものである。
 ところで、諸払分として計上されている四一七両余の内訳が残されている(以下、明治七年第四月吉日「万払方取調帳」による)。決算時点で未払であったものが一件ごとに記されている。少は福田(現水海道市)伊右衛門に対する酒代一分一〇貫から、大は「内々老母借用」、非公式に母から借りた五〇両まで、記録されている。しかも細かくみると、営業にかかわる費用と家計費が判然としない。たとえば、申年(明治五年)のうちに、「〆金弐十弐両也借用」として、「四両 大工しまいの節と申也」、あるいは「十両 東京買物代 四両母の羽織代不足」などの記述がみられるのである。
 払方のうち、一〇八両は同族からの借入金として挙げられている。内々に老母から借用した五〇両もそうであるし、おみつ、信介など弟妹を思わせるものからの借入金が間々みられる。これらの金利四両三分三朱も記されている。ほかに「山口 風の作左衛門」からの五〇両、三坂の清兵衛、忠兵衛から二四両余、上郷の中吉から一五両、向う(向石下か)伝衛門から一両二分などを加えると、借入金の合計は、二〇〇両に近く、未払金の半ばに達する。
 つぎに多いのが「店物代」であるが、これは買掛金であろう。額の大きいものでは「向石下 ます田」から二口で三五両になる。「水(水海道か)大金」の八両、さらに上石下釜作には三口で計一八両二分一朱一貫七三五文が挙げられているが、この中に「金こぎ代 一両三分」がみられる。商家とはいっても、稲作も営んでいたのであろうか。
 東京との往来も頻繁であったと思われるのに、買掛金は少なく、払帳にみられるのは、「阿小屋 二両一分一貫七百五十文」一口をみるにすぎない。したがって、ここでいわれる店物代は、ほとんどが、近在の商家から日用品を通帳で購入したものとみられる。酒代は別口で、さきの三坂の伊右衛門からの分のほかにも、日の出屋三両三分などと記されていることからも、この事情はうかがえよう。一件の額は少ない店物代も、合計すれば八〇両を超える。
 米、雑穀商として仕入れた物品の払方では、米代として、二口三一両になる。「中富 う平次」の名がみえるが、所在地がはっきりしない。「大豆代預り」は二六両で、これには新石下清兵衛、源左衛門、山口村風の、橋本の名がみえる。さらに小麦代として上郷万屋の名があり、二両一分二朱九〇〇文とある。
 縞木綿にかんしては、「しま代」とあるのがそれと思われるが、六件五両二分一二貫余が記帳されている。三坂の庄吉、福田の市左衛門など六人の名がみられる。飯村家では、製品となった縞木綿の仲買いだけをしていたのではないようである。払方帳には、染賃として三坂清兵衛五両一朱一〇四貫三〇〇文、東野原染屋に三両二〇〇文の支払いが残されている。清兵衛はさきの借入金のところで名を出された清兵衛と同一人であるのかどうか。また「由之介 糸代 差引沖新田分共」として六両二分二七〇文がみえる。糸代の支払いといい、紺屋への支払いといい、この商家では、農家の織りあげた縞木綿を買いあげただけでなく、原料の糸を近在の農家に与えて縞木綿を織らせ、その手間賃を支払っていたとみられる。
 鬼怒川沿いの大房村で商業を営む飯村家は、商品を大量に東京へ移送することで利益を得ていたはずである。その商品は、横堤、向石下、上石下、山口、東野原など現在の町域は勿論、三坂、福田、上郷など、町域に隣接する村むらから集積されており、地域ときわめて密接した営業活動をしていたことがわかる。