常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第一章 近代への出発

第一節 幕藩体制の解体

新政府は明治四年から五年にかけて土地永代売買の禁を解除するなど、これまでの封建的な諸制限を撤廃し、近代的な土地・租税制度の方向に歩み出した。明治五年全国すべての土地に対して地券を交付することが決められ、これを受けて印旛県でも同年十月、県庁に戸長頭取を集めて実地取調方凡例、地価取調凡例を示した。戸長頭取は土地一筆ごとの反別調査を行なった上、その土地の地価を算定して取調帳を作成・提出することを命ぜられた。しかしこの取調べは簡単に出来るものではなかったから、取調帳の提出は村によってかなりの差異を生じた。石下地方の村々がどのようであったのかは不明である。
 明治六年石下地方が千葉県に所属するようになるが、同年七月政府は地租改正条例を布達したから、各地の改正事業は本格化することとなった。改正の要点は(一)課税の基準を収穫高から地価に変更し、(二)物納を金納にあらためて税率を地価の三パーセントとし、(三)土地所有者を納税者とすること、であった。
 千葉県の改正事業は他県に比べて特色を有した。それは柴原和県令が大蔵省の地券税取調掛のメンバーの一員であったからで、柴原は改正事業に早く取りかかったばかりでなく、当面旧安房国を選定して集中的に実施した。このため同じ千葉県内でも上総・下総地方はほとんど手をつけなかったのである。安房地方の改正事業は急ピッチで進み、明治七年一月頃に完了したが、二月県庁が火災にあい政府の中止指令もあって、それから一年以上中断したままになった。当地方の改正事業は明治八年五月茨城県域に所属することになって以降、茨城県下の事業として実施されるようになる。
 

Ⅰ-4図 地券(渡辺亮氏蔵)

 茨城県下の地租改正事業は、同八年「地租改正ニ付人民心得書」ならびに地価取調帳雛形が交付されて本格化した。しかも改正事業は明治九年末をもって一応の区切りとすることが政府から指示された。改正事業は実地丈量調査や官民有地の区分などむずかしい問題もあったから、茨城県権令中山信安は県内各地を巡回してその督促をはかった。
 結城郡下の丈量は明治八年末から行なわれたが、九年に入ると一層さかんに行なわれだした。同年二月二十六日中山権令は仁連町(現三和町)に出張し、県西地区の巡回日程を決定した。その巡回予定をみると、
 
  三月一日~二日 町屋泊
    三日~四日 下館泊
       五日 結城泊
       六日 古河泊
       七日 諸川泊
       八日 境泊
       九日 石下泊
       十日 水海道泊  以後相馬郡下へ移る
 
というもので石下地方の巡回は三月九日前後であったが、実際には若干の変更があったようである。
 改正事業については各地で様々な問題があった。とくに土地境界についての争論や、官有地と民有地の区分などの問題が多かったが、当地方ではどのような問題が起ったかは詳細には不明である。ただ小保川村の「用水堀土揚場」についての争論が、明治九年八月十二日付で下妻支庁に提出されている(『茨城県史料 近代政治社会編Ⅰ)。それによると「用水堀敷及土揚場村吏共旧格ヲ破リ、接続私有地ヲ相犯シ幅員相広ケ候趣ヲ以、引直シ方之義別紙之通リ願出」た。この用水は「本村而已ノ用水ニモ無之、川下数村ノ用水ニ渉リ、通常ノ堀ト相異リ目下満流致候義ニテ、本村ニ限リ川敷土揚相減シ候テハ川下ノ苦情如何モ難計」というものであった。つまり小保川地内の用水堀の土揚場を拡張して、村当局が私有地にまで土砂を置くようにしたから、これは「一筆限帳」記載の地図に相違しているものである。土揚等河川敷の変更については川下の村々と相談の上実施しないと、とかくの問題が起るので、この用水堀の実地検分を改めて実施して欲しいと願い出たのである。これに対し下妻支庁は、実地の丈量をした上で「一筆限帳」を作成したのであるから、それ以後の問題は取り上げないとして、この願いを却下している。
 とにかく地租改正事業は明治九年一応の終了をみたのであり、九年の「地租金第一期皆納日限村名帳」(前掲史料)によると、当地方の各村は「期限通皆納」と期日内に地租金の第一期分を納入している。村によっては一日ないし三〇日の間で納入が滞っているところがあるが、当地方の村々は怠納もなくきちんと改正事業の結果に従ったのである。