常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第四編 近現代

第一章 近代への出発

第一節 幕藩体制の解体

慶応四年(一八六八)三月新政府は「五カ条の御誓文」を発表して、新政の基本精神を明らかにした。四月には討幕軍が江戸城に入り、幕府最後の将軍慶喜は水戸弘道館に謹慎した。この頃結城藩領内では藩主と家臣らとの対立が争乱にまで発展し、新政府軍が結城城を攻撃してこれを陥落させた。五月に新政府は徳川家を駿府七〇万石に封じたが、これより先閏四月には「政体書」を定めて、中央集権の実現と三権分立体制の採用をはかった。
 旧幕府領はすでに新政府の管轄下に組み入れられていたから、天領・旗本領の圧倒的に多かった石下地方は、新政府の直轄地として直接の支配下に入った。常陸知県事、下総知県事らがおかれ、その役所が管下の治安維持や徴税等に当ることとなったが、しかしまだ旧幕府時代の行政支配の慣習も残っており、新政府の一元的支配下に入ったとはいえ、行政的にはかなりの混乱状態が続いた。指令にしても古河に設けられた下総野鎮撫府よりのもの、結城や土浦の役所からのものなどが交錯していたという(『水海道市史』下巻)。
 しかし当地方は新政府直轄地として早速金銭的負担が割り当てられてきた。明治元年四月から九月頃にかけて政府は、戊辰戦争その他に関する経費としての臨時賦課を行なった(「御改革割合下調帳」新井清家文書)。その金額の多いものは三両二分程度、少ないものは二~三〇〇文位であるが、少額ずつであっても何回かの割当てがあれば、それなりに大変なことであった。これらの金額が全部でどの位の額になったのかは不明であるが、本石下村では五郎左衛門、孫兵衛、住吉屋、新石下村の喜兵衛、大房村の政右衛門その他の人びとが分担した。そしてこの経費は同年末からは正規の貢租となり、村に課される助郷人足賃や江連用水負担金などと同じように、「御改革入用」として賦課されたのである。例えば本石下村では明治元年の課役金六五両二分一朱と一一三一貫一六文のうち、秋割分の改革費として一二五貫四〇二文が賦課されている。このように新しい貢租が追加されたことは、当時の人びとにとっては混乱を助長するものであった。
 明治二年従来の常陸知県事管下が若森県に、下総知県事管下が葛飾県となるが、石下地方が所属した岡田・豊田両郡は旧下総国ではあったが、地理的なこともあってか筑波郡大曾根村若森に役所が置かれた若森県管下に属した。
 

Ⅰ-1図 若森県庁跡

 若森県管下となった石下地方の村々は、以後若森県役所の指揮を受けることになり、村々は村況等の書上げを提出した。その一端として本石下村の「家数人別書上帳」(新井清家文書)の一部を紹介すると、次のとおりである。
 
  家数九拾六軒
  人別五百廿三人 [内男弐百五拾七人女弐百六拾六人]
   外ニ
  神主壱軒 人別壱人 男
  寺 三軒 人別五人 男
  行屋三軒 人別三人 男
  右家数七軒人別九人
    家数百三軒
  惣合
    人別五百三拾弐人 内男弐百六拾六人女弐百六拾六人
     明治二年巳七月
 
 この届書も最後の部分をみると、幕藩時代の旧旗本の興津錦三郎、土屋三郎右衛門、上原鋼五郎の知行地ごとに名主・組頭・百姓代らが署名捺印して提出している。つまりまだ村が一つにまとまっていないのである。そこで村内では旧知行地ごとの体制を、一つにまとめることが必要であった。本石下村では同年九月になって一体化がはかられ、「議定書」(新井清家文書)がとりかわされた。その内容は次のとおりである。
 

Ⅰ-2図 「議定書」の最後の部分(新井清氏蔵)

     為取替一札之事
  一、本石下村合高九百三拾四石九斗八升、去辰年秋迄興津様、土屋様、上原様并ニ榊原様無民家指添ニて、
    三給ニ相分リ居候処、去秋中給々上知知県事様御一手御支配所ニ相成、此度御一新ニ付数給之村方は
    給々之分、御年貢米永御取箇筋一纏ニ致し、壱村壱給平均割合取調可差出旨御趣意ニ付、
    右様取調可申候処、当村之義は矢張是迄振合を以取調差出度趣一同熟談仕候間、御役所向御聞
    済相成候上は、左之箇条書之通り末々無異変相守り、本石下村郷中睦敷ため取究議定左之通
  一、興津様上知高七百廿壱石弐斗三升八合之義は大高之義ニ付、是迄之通り御割付壱本壱組ニ取調相願上
    候事
  一、土屋様上知高百四拾八石六斗三升三合六勺、榊原様上知高弐石弐斗壱升、両給一同組込御割付壱本壱
    組ニ取調相願上候事
  一、上原様上知高六拾弐石九斗弐升八合四勺之義は小高之事故、何方え組込候共御役所御沙汰次第之事ニ
    御座候処、右組家数八軒之内弐軒は興津様上知高え丸々家作相続仕居、三軒は上原様上知屋敷高え、
    興津様上知分高添地ニて家作相続罷在候得共、土屋様上知分小高之事故、土屋様、上原様、榊原様三
    給上知合高弐百拾三石七斗四升弐合組込、御割付壱本壱組と取調、一同熟談之上相願候事
  一、此度被仰出候御趣意之通興津様、土屋様、上原様、榊原様四給分御年貢米永一纏ニ致シ、本石
    下村田畑惣反別え無甲乙様割合、御割付弐本ニ相願上候事
  一、御割附弐本弐組ニ願之通り被仰付候節は、都て本石下村一村え相掛り候、御用向郷用共両組役
    人罷出候得は、諸入用も相嵩村方難渋之義ニ付、大概之義は両組申合惣代ニて罷出取計可申、
    其節之入用一同高割ニて出金可致事、惣代ニて不相済候節は両組役人被出候事
  一、鎮守八幡社其外大小神社、并ニ興正寺其外寺院、行屋、寮ニ至迄、都て神社仏支配諸世話之義は、本
    石下村両組惣役人ニて致候事、尤大概之義は是迄之通、両組重立候役人取計可申事
  一、村方ニて唱候組名之義は、御割付弐本御聞済相成候上は、御役所より何と歟着附之御沙汰も御座ある
    べく候間、其旨組名相用可申事
  一、御用並ニ郷用共取扱之義都て是迄之通りニ取計、村入用相減候様一同睦敷申合可相勤
 
 この議定書の最後には旧知行地ごとの村役人・農民らが連印して、「兎角村為専一ニ致シ諸事睦間敷申合取計」うことを申し合わせたのである。
 村の一体化とともに大事なことは、旧領主時代の年貢の先納分をどうするかということであった。旗本知行地などではかなり年貢の先取りが行なわれていたようで、明治元年末から三年ごろにかけて、この先納分の書上げや、その善処方についての歎願書が数多く出されていたようである。
 若森県知県事池田徳太郎が、若森の役所に着任したのは明治二年二月十五日で、下総・常陸国の二九万石余の地を支配することとなったが、県は前述のように旧幕府時代の気風が色濃く残っている中で、人心の鎮静化・新政の訓育といったものを急ぎ実施する必要に迫られた。そこで各種の政策が行なわれた。例えば同年三月末には若森県役人の成川頼三郎が「窮民拝借貸渡御用」として管下の各村を巡回し、村役人の家に泊り込んで窮民の救済を行なっている。また六月には次のように、野菜の種子まで下付している程である。
 
  若森県より支配所村々え大根種十人ニ付壱合之割合ニて、国生村与左衛門宅え御出役有之、八拾壱ケ村え
  被下候
  若森県ニて金六百両余支配所村々之被下候(新井清家文書)
 
 若森県もその行政機構を次第に整えてはいくが、旧幕府時代の行政組織を利用したものもある。寄場組合などはその一つで、明治二年十二月十日当地方では、本石下村、中石下村、上石下村、新石下村、若宮戸村、原宿村、原村、小保川村、館方村、豊田村、本豊田村、曲田村、収納谷村、平内村、山口村、三坂村、東野原村、大房村の一八か村が改めて寄場組合を仰付けられている。
 県の支配も旧幕時代とあまり変るものでなかったことは前述のとおりであるが、農民の中で模範的な者を取調べて上申することなども行なわれた。三坂村では明治三年四月若森県役所に対し、「精農人書上帳」をもって次の三名を届け出ている。
 
                            高九石三斗五升弐合
                                伊兵衛忰利助
                                 年三拾三才
  右之者義家内五人暮候て平日両親之申付相守り、第一農業出精致し家内睦敷、世間之交り宜敷諸人ニ勝れ
  稀成者ニ御座候間、外小前之亀鑑ニ相成候ニ付 御褒被成下置候様奉願上候 以上
 
                            高廿弐石三斗五升
                                  半右衛門
                                 年五拾三才
  右之者義年来潰ニ相成候処、当午三拾弐ケ年前郷住致し、元所持高弐石七斗三升八合有之候処、出精致し
  年毎ニ豊饒仕、質地買添共前書之通り出精仕候間、是又御褒被下候様奉願上候 以上
 
                         高拾弐石六斗六升七合六勺
                                  幸右衛門
                                 年四拾四才
  右之者義家内八人暮ニて先代ニ多分借財出来、何分暮方難渋仕所持田畑乍増質地ニ相渡置候処、出精致し
  候ニ付不残請戻し、加之質物等も取置候程之出精人ニ付、御褒被成下置候様、只管奉
  上候 以上
 
 両親に孝養を尽して農業に精を出すこと、絶家寸前にまでなった家をもりたてたり、親の多額の借金にも負けずに頑張り、多くの田畑を所有するようになった精農ぶりなどに対して褒賞することは、旧時代と変るところがなかったといえよう。つまり政府は変革期人心の混乱を、鎮静化することに努めたのであった。