常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第八章 幕末の石下

第三節 戊辰戦争と庶民の立場

七月に入ると、北総地方での政府軍の民衆教育宣伝活動が活発化してくる。十一日には、政府軍三〇余人が石下に宿泊して、石下、鎌庭、加養(現下妻市)組合村一同を呼びだし、王政一新教示の申諭しと旧来の高札書きかえを命じた(長塚幹之助家文書)。村々は急ぎ徳川幕府の高札をはずして、同年三月十四日にすでに発表されている五榜の掲示を村辻に立てた。その時の政府の「教示之大意」にいわく。
 
  王政御一新と申すは、万民の疾苦を救い、各人が安堵できるようにとの叡慮によるものである。ところが
  下々の者にいたっては、御趣意を心得違いをして、わずか徳川三〇〇年の恩顧を思い、日本開闢以来の天
  朝数千年の鴻恩を忘れているものがいる。もともと徳川は天朝の役人であって、現在慶喜は恭順謹慎に処
  している。それにもかかわらず、徳川の恩と唱えて王師に抗することは、天朝のみならず慶喜の志にも反
  する大逆無道なことである。村方役人はこのことをよく村内のものに申諭し、悪行など働くものがないよ
  うに監督せよ(新井清家文書)。
 
 鬼怒川西地区の村々にも、七月十七日には政府軍一三人が猿島郡から崎房村、岡田村などを鎮撫取締りを名目に検分している。その際に、鎮撫府より猿島・岡田両郡の取締り向は、古河藩に委任する旨の申渡しがなされている(長塚幹之助家文書)。こうして、黒船来航以来の幕末石下の騒擾は、鎮撫府の手によって一応鎮静化し、九月八日をもって明治という新しい時代を迎えるのである。
 

Ⅷ-10図 五榜の掲示(渡辺修氏蔵)


Ⅷ-11図 高札場(秋葉紋子家)