常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第八章 幕末の石下

第三節 戊辰戦争と庶民の立場

大鳥圭介軍は、舟形村(現野田市)から利根川を渡って筵打村(現岩井市)、辺田村(同)と進み、岩井村の高声寺を本陣としている。そののち、銚子街道を北上して境に至り、さらに日光東街道(境通りと一部重複)を経て、十五日には諸川宿(現三和町)に投じている。翌十六日には、小山、結城近辺で政府軍と武力衝突しているが、そののち宇都宮・日光方面へと進軍していった(今井隆助『北下総地方史』)。
 また同十六日、会津藩士江上太郎率いる四〇〇余、新選組土方蔵三の率いる二五〇余、合計七〇〇人に近い脱走集団は、東照神君家康の白旗を翻して、舟で水海道から鬼怒川を北上して宗道に上陸、下妻へ集結して陣屋をとり囲み、兵糧・弾薬の提供を強要した。小藩の下妻藩にとっては、佐幕も勤王もなく自藩の存続こそが最優先の課題であるから、その要求をのんで旧幕府軍の鋭鋒を避けている。そののち、この一隊も下館から宇都宮方面へ進路をとっている(『下妻市史』)。
 こうした旧幕府軍の通行と、四月二十日に鵠戸村(現岩井市)付近でおきた政府軍と旧幕府軍との武力衝突の様子を、大輪村(現水海道市)役人の野州大前役所宛歎願書からみておく。
 
  四月十五日夜、水海道村へ浪人千人余繰込み、石下村迄村々人馬にて継立、猶十九日は千二百人余水海道
  村より岩井村に多分の人馬にて継立、二十日朝、官軍と浪人ら合戦し、落こぼれの者共近村物持に参り、
  軍用金と唱ひ金策致し、窮民は継立強制をされ岩井村一円に難渋、猶又去る四月二十日より官軍日光東街
  道仁連、諸川宿へ高百石に付人足五人馬二疋つつ助郷仰付けられ、相勤め候て大小の百姓必至と難渋仕り
  候(『北下総地方史』)。
 
 農民たちは、朝に旧幕府軍を送りだしたかと思うと、夕には政府軍を迎えるといった忙しさであった。自らの農業生産活動に第一義的な価値をおく農民たちにとって、多忙な農繁期にもかかわらず、度重なる助郷と金穀の調達を彼らに命じる政府軍も旧幕府軍も一様に厄介者とうつったに違いない。しかし、為政者からの要求を正面から拒否する手立てをもたぬ彼らは、その重圧にじっと耐えることを強いられた。