常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第八章 幕末の石下

第三節 戊辰戦争と庶民の立場

東帰した慶喜は、内外の情勢を考慮していちはやく新政府に恭順し、四月十一日に江戸城を無血開城し、水戸に自ら去って謹慎した。素早い主君の改心に対して、幕臣たちが同様の処身ができたかというとそうではない。勘定奉行小栗上野介や海軍総裁榎本武揚・歩兵奉行大鳥圭介らは、最強硬の主戦論者であり、会津藩主松平容保や桑名藩主松平定敬らもしきりに再挙を主張した。彼らは江戸城開城を前後として、慶喜の指揮下から離脱して江戸以北の地へと散っていった。
 当時の様子は、大村益次郎の岩倉具視宛書翰のなかに、「安房・下総・上総三州在州の譜代大名・佐倉・大多喜・久留里・佐貫悉く空城同様、藩士恐怖民心如麻。殊に江城の脱走人彼三州に集り、蜂起乱暴止時無之」(原口清『戊辰戦争』)というありさまであった。
 四月十二日に下総の市川に集合した大鳥圭介率いる一隊は、二〇〇〇余人の大軍勢であった。大鳥の起草した檄文は、激しい調子で新政府軍を「官賊」・「売国ノ賊」とよび、自分たちの行為を「報国尽忠ノ義挙」として「此時ニ当タリ、錦旗(天皇の旗)天地ニ翩翻スルモ、必ス蹂躍スヘシ。錦旗素ヨリ人手ニ成リ、賊手ニ在リテハ賊手ニ働ク。賊旗何ソ恐ルルニ足ランヤ」と新政府軍に敢然と対峙して、自軍を「天兵」と称した(『戊辰戦争』)。