常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第八章 幕末の石下

第二節 世相の動揺

天狗の名が天下にとどろいたのは、元治元年三月十五日新治郡片野村(現八郷町)穀屋伝吉が、梟首される事件があってからである。伝吉は日頃から諸品買いしめて窮民を苦しめ、近頃は糸綿の類いを莫大に買い入れ貿易に従事している理由で「報国義士」に斬殺された上、市川駅(現新治村)に梟された。この事件の波及効果は大きく、石岡・筑波・八郷・土浦周辺の糸綿商は、天狗党から呼び出しがあると早々に出頭し、貿易に従事していたことを謝罪して、金子を提供した。その金額は二〇〇〇から三〇〇〇両におよんだといわれる。
 筑波山挙兵には、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)から五〇〇両(一説には一〇〇〇両)が藤田小四郎に渡されたといわれるが、隊の活動資金の多くは、参加してきた同志の自前に支えられていた。したがって、挙兵の長期化と参加者の増大につれて、資金が底をつくのは時間の問題であり、軍資金の調達が急務とされた(『茨城県史』)。
 石下では、筑波挙兵以前の三月十四、五日ごろから金策がおこなわれており、二十一日には筑波町名主鎌八より石下村名主五郎左衛門(新井)と同八右衛門(吉原)のところへ差紙(呼びだし状)が届き、翌日筑波まで出かけている。さらに二十九日には、鎌八名義で水府浪人より申談じることがあるので、新石下名主平右衛門(鈴木)、茂右衛門(竹村)両人は筑波へ出張するようとの差紙が再び届いた。二人は驚きあわてて筑波へ出向くが(竹村は代理人長蔵を送る)、山田一郎という南部藩(盛岡)出身の軍資金調達担当が現われ、平右衛門に三〇〇両、茂右衛門に一五〇両を天狗党備金として差しだすように強要している。突然のことに当惑した二人だが、鎌八と面会して減額をとりなすように頼みそのかいあって、平右衛門は一五〇両、茂右衛門は七〇両の献金ですむこととなる。それぞれは鎌八に謝礼金二分と一分を手渡している(新井清家文書)。同様の差紙は、下妻の柏屋長兵衛、潮田孫左衛門、天満屋与右衛門の三人のところにも舞いこんでいる。
 

Ⅷ-5図 差し紙(新井清氏蔵)