常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第八章 幕末の石下

第一節 黒船の来航とその影響

関東取締出役から急御用の達が、三月七日付で鬼怒川筋の村々に届いた。
当月三日の朝、江戸桜田門外において乱暴に及び、逃亡したものの召捕方の急御用を仰せつける。右手配中は沙汰があるまで、指定の渡船場は朝六ツ半時(七時)から夕七ツ半時(五時)までは使用してよいが、七ツ半過ぎからは使用禁止とする。指定の渡船場以外の百姓渡しの分は、村用の外、旅人など渡すことは一切禁止する。渡船場には番非人二人おいて、心得違いなどせぬように村内に周知徹底させよ、というものであった。
 事件の主謀者が水戸藩浪士であることから、彼らが鬼怒川筋に出没することは十分考えられるし、さらに第二、第三の不祥事を未然防止する意味からも、当然の対策といえよう。早速、村内には四箇条の注意事項が周知徹底された。
 
  一 朝六ツ半時より夕七ツ半時までに通船いたし、それ以外は決して通船しないこと。
  一 三石下の内小船所持のものは、東縁につけて錠前をかけておくこと。たとえ自分の船といえども、朝
    六ツ半時より夕七ツ半時以外は決して乗りださぬこと。ただし、面体知らぬものが船越を頼んできて
    も、昼中とても決して渡してはならない。
  一 万一川西の親類が急病となった時や、緊急の連絡があり時間にかかわりなく渡船しなければならぬ場
    合には、詰番村役人へ申し出て、手形持参の上で渡船すること。
  一 渡場にて半鐘・太鼓などが鳴った時には、昼夜にかかわりなく渡場に集ること。
 
 当時の鬼怒川筋の渡船場の数は、守谷村組合内に三か所・水海道組合内に四か所、石下村組合内に四か所(うち二か所は農業渡船)、鎌庭村組合内に五か所(うち二か所は農業渡船)、新井村組合内に二か所、新宿村組合内に二か所といった具合に、現在の守谷町から結城市までの流域に合計二〇か所(うち四か所農業渡船)の渡船場があった。これらの渡船場はそれぞれ厳重な取締りが実施されたわけだが、石下の場合をみてみたい。渡船場を管理する三石下・新石下・向石下の村々では、それぞれ一か所ずつの見張所を設置し、夜は船を引きあげておいた。渡船場の相対する東西の詰所では、渡船者の住所・名前・身分・保証人名前を記した通船手形を相互に発行し、見張所役人がそれを一人一人「渡船場取締方諸用留」に記録するという念の入ったものであった。見張所役人の警備心得は次のようなものであった。
 武家方は宿所と主名家来と人名を尋ね、どこの村からどこの村へ行くのかを実筆で記録させる。姿・格好をよく確めて通船させること。旅掛遠国商人は、国所・地頭姓名・支配名主を尋ねる。最寄りに人見知りか、証拠書面を持参している場合、女・子供も同様にとりはからって通船させること。前後村方の人は、姓名を尋ね、人見知りの場合には通船させること。餌差(えさし)は国所・名前・地頭姓名と鑑札をたしかめて通船させること。浪士は前々から御触があり、今般も厳重に仰せがあったように一切断ること。女・子供も同様のこと(新井清家文書)。
 心得中にあった餌差とは、鷹の餌となる小鳥を黐竿(もちざお)でさして捕える人で、鷹匠の部下に属した職名である。鷹の餌取のため水戸藩の御鷹方鳥屋(石川)幸三郎が沓掛諏訪山におり、鑑札をもち猿島郡、岡田郡、時には奥州方面まで出張して餌取をしていた(今井隆助『北下総地方史』)。
 

Ⅷ-図2 渡船場絵図


Ⅷ-3図 渡船場見張小屋


Ⅷ-4図 渡船手形(新井清家文書)