常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第八章 幕末の石下

第一節 黒船の来航とその影響

安政の幕政改革の諸策中、とくに斉昭の意見により実施されたものに品川沖台場建設がある。台場とは砲台のことで御台場ともよばれた。台場はペリー艦隊来航を機会に、翌年の再航の万一に備えるため、嘉永六年八月から翌年五月まで昼夜兼行の突貫工事で品川沖に建設された。台場は当初一一か所の予定であったが、結局資金不足などから、第一、二、三、五、六番のみ完成し、第四番は七分通り、第七番は三分通りで工事を中止した。ペリーの開国要請を前にした急拵えの海防策は、巨費を要したわりには全く実用に供されなかった。
 この工事に必要とされた用材が、実は利根川、鬼怒川筋の平地林から多く伐りだされている。嘉永六年九月、台場普請役人より一通の廻状が石下に届いた。そこには、品川前内海に御台場普請につき、相馬郡押戸村(現取手市小文間)御林より松丸太伐りだし、布施村(現柏市)河岸から船積する。ついては、鬼怒川通りの三〇〇俵積の船は、早々に布施河岸へ廻すようにと記してあった。早速、上、中、本、新石下村の四石下惣代の問屋甚右衛門(野村)らは船一艘をさしむけている。
 また翌年四月には、普請役人の廻村があり、新石下村名主孫兵衛(小口)、問屋甚右衛門、本宗道村名主新三郎(森)を積込世話方として、上郷村(現つくば市)から吉沼村(同前)、作岡村(同前)に広がる筑波郡内の御林より御台場用材として、松、樅(もみ)、栂(つが)の伐りだしと、新石下村の野村河岸からの津出しがおこなわれた(新井清家文書)。