常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第七章 農村荒廃とその対応

第三節 江連用水再興と農村復興

秋葉家は、先述の飯沼干拓の際に主導的役割を果たし、干拓によって成立した孫兵衛新田の九割近くの土地を所有し、新田地主として資産を蓄え、農村荒廃に直面しつつもこれを基にして多角経営に乗り出していった。寛政六年(一七九四)に材木薪商売、同十一年に米穀塩商売、天保二年(一八三一)には醬油造り商売を始め、とくに材木商売に重点を置くようになった。天保年間から弘化年間にかけて、飛驒国高山壱ノ町の田中半十郎とともに、幕府買上木を納めている。天保十四年頃には江戸に進出し、江戸相生町二丁目に出店を開いている。当主孫兵衛(修身)は孫兵衛新田の名主役を勤めていたが、公用は悴の三太夫と六人の組頭に任せ、本人は江戸に在住して商売に専念していた。同十五年=弘化元年八月には、江戸城本丸普請用の木材調達を請負うに至った。
 彼は最初、下妻の大宝八幡宮社地林から伐り出して江戸へ運ぶ予定であったが、次第に計画を拡大していった。しかし孫兵衛自身は材木商売には精通していたが、材木運搬は初体験であったため、先述の田中半十郎に協力を申し入れ、両者共同で事業にあたることとなった。二人は幕府に木材の見積書を提出し、同年十月には幕府買い上げが許可された。早速孫兵衛は十二月八日にすでに所持していた材木を納め、同月十八日に代金一〇〇〇両を受取っている。ついで弘化二年(一八四五)四月十一日には二回目の材木を納め、五月十八日に代金六八〇両を受取っている。同年十月四日には三回目の材木を納め、同月二十四日に代金五九〇両を受取っている。最後の材木はいつ納めたかは不明であるが、弘化四年(一八四七)四月一日に代金五五八両余を受取り、孫兵衛と田中半十郎の共同事業は無事終了している。
 この事業の計画は孫兵衛が立てたものの、材木の伐り出しから運搬に至るまで田中半十郎に一任し、産地や運搬に精通していた半十郎は、河川等を利用して遠く上州や信州伊那谷から、材木を伐り出して運搬したのである。しかし二人の事業がすべて円滑に進んだわけではなかった。下野国大曾根村の名主藤八善右衛門から、孫兵衛が「御用木」という名目の御威光でもって、勝手に村内の木を伐り出したと訴えられている。天保十五年=弘化元年十二月二十六日、孫兵衛はこの一件の吟味のため奉行所へ呼び出されたが、彼は御威光をもって木を伐り出したことはなく、相手方藤八善右衛門なる人物も知らず、さらに大曾根村からは伐り出していないので、なぜ訴えられたのかわからないと返答している。この一件のその後は不明であるが、孫兵衛と半十郎の事業は中絶することなく遂行されていった。
 孫兵衛と半十郎がこの事業によってどれだけの利潤が得られたかは不明であるが、幕府買い上げという性質上、高値は期待できないが、確実に一定の値段で買い上げてもらえるという保障があった。また今回の幕府用材調達を無事成功させることによって、今後の幕府当局とのつながりが出来た点、純益以上の利益があったと思われる。また孫兵衛(修身)は、この材木商売の他に薪・炭・海苔・紙等の商売にも乗り出し、幕府のみならず紀州藩等の御用達にもなったのである。
 さらに天保年間には、印旛沼干拓にも関係するようになる。これは飯沼干拓地での新田経営の才能等が見こまれたためとも思われる。このように秋葉家は多角経営に乗り出す一方、同家はその経済的基盤を背景にして、学芸や教育にも力を入れ、江戸からも多くの文人・学者等が到来するようになった。このようなことから同家は、地域の文芸サロン的存在になっていったのである(日本大学寄託秋葉光夫家文書、村瀬典章「近世中・後期天竜川における材木運搬請負人」『地方史研究』一九五所収)。
 多角経営に乗り出し、江戸にまで進出していった秋葉家のような豪農が存在する一方、秋葉家の眼前に広がる飯沼新田一帯では、明日の食べ物にも事欠く困窮、疲弊した多くの農民たちが存在した。飯沼対岸の沓掛(現猿島町)字諏訪山にある稲荷神社境内に、「岸本君二世功徳碑」と刻まれた石碑が現存する。この石碑は、寛政六年(一七九四)から文化十三年(一八一六)にかけて、飯沼新田一帯を支配した幕府代官岸本武太夫就美と、その子武八茂美の「善政」を称えるために、文政四年(一八二一)に新田農民たちによって建立されたものである。
 

Ⅶ-17図 岩本君二世功徳碑(沓掛 稲荷神社)

 岸本武太夫就美は、寛政五年十一月、下総・下野両国の内、六万八〇〇〇石の幕領支配を任せられ、翌六年に代官陣屋を下野国都賀郡藤岡(現栃木県藤岡町)に設け、飯沼新田一帯を「別段支配所」として支配し、早速荒廃著しい飯沼新田一帯の復興に取りかかった。彼のとった飯沼新田復興策は、老中松平定信主導で開始された寛政改革の中心的課題でもあった、荒廃農村対策の基調に基づいて実施されていった。
 復興策の第一は、新たな入植者の募集であった。飯沼新田からは離村者が多く、耕作者のいない「手余地」が増加して新田一帯の農村荒廃は顕著であった。入植者に対しては、国元からの引払料や道中費用、さらに新田耕地・家屋・農具等を与え、彼らを復興の担い手にしようとしたのである。第二は、享保年間の干拓以来、本格的な改修がなされていなかった排水路の改修であった。飯沼新田一帯が荒廃した主要因は、排水路の不備と機能低下に他ならないと痛感し、水路の拡張・浚渫、利根川落口の改修工事を実施したのである。さらに烏桕(とうばせ)や漆を植えさせ、少しでも復興の足しにさせようとした(長命豊『飯沼新田開発』、村上直『天領』、「鴻山実録」)。
 岸本武太夫の死後飯沼新田一帯の復興は、子の武八茂美に引き継がれ、父子二代二三年間余にわたって、飯沼新田一帯の農村復興が行なわれた。岸本武太夫・武八父子の施策は、農民たちにも歓迎され、記録には「則民ニ教ヲ施シ、不能を導キ給ふ、御仁恵之厚キ恩也」と記されている(「鴻山実録」)。このことが、先述の「岸本君二世功徳碑」建立につながったものと思われる。事実、飯沼新田一帯の村々にも復興の兆しが見られたのである。
 栗山新田の場合、明和六年(一七六九)の家数は一七、人数は八九であったが、寛政六年(一七九四)の家数は二〇、人数は一〇九となり、文化十四年(一八一七)の家数は二〇、人数は一三二に達している(秋葉いゑ子家文書)。つまり、農村荒廃の一つの目安である農村人口の面では、その減少傾向に歯止めがかかり、逆に増加に転じてきたのである。だが農村復興への道はなお険しく、農民たちの模索と苦闘が続くのである。