常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第七章 農村荒廃とその対応

第二節 農村荒廃と村方騒動

関東農村の多くは、元禄・享保年間頃から次第に変化を見せはじめる。貨幣の農村への流入は、農業技術の発展や商品作物の栽培を促進させる一方、村内に貧富の格差を生じさせていった。さらに重い年貢と諸役の負担に加えて、たび重なる大水や日照り等の自然災害によって、農民の生活は根底から脅かされるようになった。村々には困窮者や潰百姓が続出し、離村を余儀なくされる農民が相ついだのである。江戸や町場に流入したり、無宿となって他国を流浪したり、あるいは地主の小作百姓になる等、さらに生活の困窮から間引きが行なわれ、農村の人口は減少していった。
 この結果、耕す者のいない「手余地」が増加し、耕地が荒廃するという現象が至る所で見られるようになった。しかし反面、これら困窮者や潰百姓の土地を集積して、経営の拡大を図る農民も見られるようになり、次第に農村は、豪農と貧農の両階層に分化していったのである。
 このような農村荒廃化の現象に拍車をかけたのは、相つぐ凶作と飢饉であった。近世における飢饉として有名なものに、享保・天明・天保の「三大飢饉」がある。特に天明・天保の両飢饉は、石下町域の村々にも深刻な影響をもたらした。
 「天明の飢饉」は、天明二年(一七八二)に始まり、下妻では十二月だというのに春のような暖冬を迎えたが、年が明け春を迎えると急に厳しい寒気が戻り、冷たい雨が降り続き、晴れる日はまれであった。五月の田植え時、さらに七月に入っても一向に気温は上がらず、まさに異常気象で収穫も望み薄く、この年の凶作は必至となった。そして七月六日、史上名高い浅間山の大噴火が起こり、関東一円に大量の火山灰を降らし、火山灰は雪のようにつもって、作物をおおいかくしてしまったのである。この結果収獲は激減し、前年からの凶作に加えて米相場は暴騰し、極度の食料不足から餓死者が続出するようになった。下妻近辺では、生活に困窮した大勢の者たちが押し寄せるといった、不穏な社会情勢になってしまった。凶作と飢饉はその後も続き、天明六年七月には、追いうちをかけるかのように、鬼怒・小貝の両川が氾濫し、凶作と飢饉に苦しむ流域村々に泥水が押し寄せたのである(下妻市外山崇行家文書『下妻市史』)。
 このように凶作と飢饉が全国的規模で広がる中で、享保年間に沼廻り村々の熱い期待と宿願をうけて開発された飯沼新田は、排水問題の致命的欠陥から毎年のように冠水し、すでに荒廃化の一途をたどっていた。新田からの離村者が相つぎ、放置された新田は荒れるにまかされた。これは新田にかぎらず本村も同様であった。
 鴻野山村では「宝暦年中ゟ潰百姓出来、田畑手余荒地年毎ニ相重リ、是ヲ本免ニて弁納仕置候ゆへ、村方必至と相弱り」という状況であった。勿論、所轄代官も年貢の減免等の施策を行なったが効果がなく、農民の困窮の度合いは深まる一方で、「嫁聟呉れ候ものも無御座相成、悲乎世嗣絶て潰となり、是を見るニ付、行末無頼妻子を引連レ立逃候」という状況に変わりはなかったのである(「鴻山実録」)。
 このような状況に対し、かつての新田頭取たちの子孫である新田地主たちは、まったく無為無策であったわけではなく、崎房村名主秋葉家は、天明三年に生活に困窮する農民を築山造成に従事させ、食費と日当を支給して救済の手助けとした。農村荒廃、とくに潰百姓の続出という状況は、多くの村々にとって重要課題となった。村落共同体としてのまとまりを維持し、状況に対応できる村落運営を行なうべく苦慮することとなったのである。
 安永二年(一七七三)蔵持村では、領主から一〇年間年貢を免除された潰百姓分の荒畑と、屋敷地に生えている竹木類は、勝手に伐採しない旨、小前一同が連印した証文を領主に提出している。潰百姓分の土地にかかわる私欲を村内で規制しているのである(増田務家文書)。
 同七年杉山村では、年貢勘定をめぐって出入訴訟が発生したが、その際の済口証文には、潰百姓分の年貢や田畑の管理についての細かい規定が盛りこまれている。それだけ当時の村々にとって、潰百姓の発生と事後処置が、村落運営上避けては通れない問題になっていたのである(増田務家文書)。
 しかし、農村荒廃化の現象はますます顕著となり、文化五年(一八〇八)蔵持、杉山、篠山、向石下、五箇(現千代川村)、皆葉(同上)の旗本森川氏知行所六か村では、小前百姓層が大挙して拝借願いのため千住宿まで押しかけるという事態が発生している。この結果、六か村へは「御救米」七〇俵が認められるに至った(増田務家文書)。同九年向石下村では、「村方規定帳」を作成して村内の融和に努め、農村荒廃に対処しようとしている(増田務家文書)。これは、農村荒廃化が進行するにつれて、村内では年貢や拝借金等の問題をめぐっての争い事が絶えず、出入訴訟も相ついでおり、このような状況下における村としての対応策の一つの表れでもあった。これは、鬼怒川東の村々も同様であった。
 

Ⅶ-12図 農村荒廃の記録(増田務氏蔵)

 本豊田村では、明和三年(一七六六)は、「旱風水三損ニ付、殊之外百姓難儀仕、尚前々ゟ夫食一円無御座候」という最悪の状況下にあり、領主である旗本窪田氏に対し、「夫食種子」の拝借を願う一方、当年暮の年貢を免除して欲しい旨を訴えている(篠崎育男家文書)。
 また、小保川村では、文化九年の夏、大水で野菜類や豆類が大きな被害を受け、稲の収獲も危ぶまれたため、旗本領主に対し、「御領主ニも差支」と警告を発し、御用金賦課の拒絶と年貢減免を要求している。さらに当時、同村は四二軒の内、一九軒は農間渡世を余儀なくされており、年貢徴収に加えて御用金の賦課は、彼らを潰百姓に陥れる可能性が多分にあった。また村役人層の多くも次第に困窮し、田畑を質地に出して領主の借金に充てている始末であった(浅野茂富家文書)。
 一方、このような農村荒廃化に伴い、地域一帯の治安の乱れも顕著になってきた。無宿者や浪人が横行し、今までの治安取締では対応できなくなった。とくに関東農村は幕領・藩領・寺社領・旗本領が錯綜していたため、事態はより深刻であった。このため幕府は、文化二年勘定奉行の支配下に関東取締出役を設置して治安維持の強化に努め、領域をこえて警察権を行使できるようにした。さらに文政十年(一八二七)村々に対し、治安維持を主目的にした改革組合村を結成させ、庶民生活の細部に関する条項を盛りこんだ触書を伝達し、先の関東取締出役と共に治安維持の再編強化に利用しようとした。
 しかし、実際、村々における治安状況は必ずしも好転してはいなかった。同年六月、本豊田村では「村方困窮ニ付、止宿・足料等御取計御難渋ニ付、浪士立入不申様」にと舟玉宿(現関城町)の柏屋兵吉を仲介にして、一五人もの浪人集団との間で証文を取りかわしている(篠崎育男家文書)。当時一五人もの浪人集団が当該地域を横行し、村々との間で村内立ち入りをめぐって、金銭の授受・ねだりがあたりまえのごとく行なわれていたことが推察される。また舟玉宿の柏屋兵吉なる人物の存在と顔役ぶりが興味深い。
 

Ⅶ-13図 浪人集団との間の証文(篠崎育男氏蔵)