常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第七章 農村荒廃とその対応

第一節 旗本支配と村落

天保五年(一八三四)八月、地頭所は「家政改革」の申渡しをしてきた。この改革は倹約、緊縮を主として五年間で財政整理をしようというものだった。翌月にはその実施の一つとして奉公人を減らそうとしたが、女中一同から寒さの季節に、暮れ正月は春夏と違い、減らされては困ると申し立てられ、そのため用人たちは相談の上で一人扶持返上、女中一人減らし、吉見剛兵衛二人分減し、都合四人扶持と女中雑用を減らすことになった。
 こうして天保の家政改革が実施されると、翌天保六年八月村々は一同出府し、「新古過納金」を残らず調べ出した。それによると、文政十年(一八二七)三五九両余、天保四年八五六両余、天保五年二四二両、天保六年正月から八月までに五四三両分が過納となっていた。合計すると過納分は一七一八両余にもなっていた。つまり、先納金等を命じられ村々が出金しても、地頭所からは元利とも返済が十分成されていなかったのである。この過納分については、勝手向きが立ち直れば下げ金を増し、家政改革六年目の天保十一年より元金返済を行なうと地頭所はいっている。
 さらに日々の暮し金については、村々よりの出金が不足し行届かないため、本田庄左衛門と三河屋平四郎の二人に出金を依頼したので、知行所村々の物成を引当てて月々暮し金を借り請けるとしている。これは先の天保三年に若狭屋新兵衛を頼んだのと同一の方法であった。
 この天保五年以降の家政改革では、財政整理と緊縮の中で莫大な借財が明らかにされた。知行地の村々では名主に対し、百姓代を先頭に小前たちが先納金の上納拒否を申し出ていた。それは天保五年二月の本石下村百姓代作右衛門以下四七名の小前たちの行動と同じように、相模国の愛甲郡七沢村、戸室村、金田村の相州知行所でもおこっていた。
 天保六年三月、名主たちは先納金上納を申付けられたところ、小前の百姓たちはそれに反対し、そのため飛脚をもって地頭役所に免除願いを伺ったが却下され、百姓代一同召連れ出頭すべきことを命じられたので、小前の者たちが大勢騒ぎ出した。結局、六両だけ出金に応じ、残りは三か村名主が工面することで騒ぎはおさまった。名主たちが先納金のほとんどを自己負担しなければならないほど、小前たちの発言力は強まっていた。
 家政改革三年目の天保八年には、年間四八〇両の勘定で地頭勝手向賄いが実施されている。その内、勘定の三割一四四両分は越後屋利助により出金、七割の三三六両は知行所村々からの出金で賄われており、一〇か村の名主が一人ずつ屋敷に出張して取締りにあたることになっていた。
 このような緊縮財政の中で、興津氏には屋敷替えの話もあり、牛込山伏町の安藤虎之助の屋敷へ引越しすることになった。その雑費として一五〇両が必要であったが、知行所村々はそのうち九〇両だけ引請けた。
 こうして旗本興津氏は文政期・天保期を通じて財政の窮乏化と借財の増加が進み、家政改革の努力にもかかわらず、財政的に苦しくなっていった。興津氏は知行地の村々と商人に対する依存度を増々強めていったが、天保期には、文政期にも増して知行所村々の小前を中心とした農民層の抵抗が強くなっていった。小前たちは先納金をめぐって名主たちと激しく対立するようになり、その発言力は強まっていったといえる。