常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第七章 農村荒廃とその対応

第一節 旗本支配と村落

文政八年(一八二五)九月本石下村名主五郎左衛門は、名主退役願いの際に「恐れながら書付をもって諫言(かんげん)奉まつり候」と題する一通の書状を書いている(新井清家文書)。
この文書の内容が領主の興津兵左衛門の元へ届いたかどうかは不明だが、旗本の名主を務め、その家政に深くかかわってきた五郎左衛門の考えがよく示されている。
 

Ⅶ-5図 五郎左衛門の諫言書(新井清氏蔵)

 この書状の中で五郎左衛門は、御屋敷の風評は増々悪くなり、「お痛わしいのは御前ただお一人」だといい、田川喜右衛門とか中山新右衛門や鷹野源兵衛、荒川長四郎、大平忠右衛門など退身、または暇を申付けられた者はみな忠義の者たちであり、奥方に背いた者たちばかりである。御家の借財も御前が無益につかった金は一銭もなく、一切は奥方と秋月権太夫の仕業だという。彼らは御前が留守の折には、夜を徹して酒食にふけり、芝居、遊山、釣船、参詣などの名目で遊興に遣ったという。権太夫や久太夫をもって御用金や先納金を厳しく命じても、知行所村々の内に出金におよぶ村は一村もないと断言している。
 五郎左衛門は、奥方は御隠居様に預け、権太夫、久太夫は暇をとらせ、そのほか奥女中達もすべて暇をとらせ入れ替えれば、風評も良くなり若様番入り、御前の転役昇進もあるだろうことや、朝夕の召上がり物にも油断なくすべきこと、知行所名主はすべて御前の味方であることを述べている。また、屋敷替えの話が伝わっているが、その費用もいろいろな名目で権太夫たちの手に入ってしまい御前には納められないだろうことや、権太夫や奥様の悪評が御前の耳に入らないのは、家来や奥女中までが奥方の味方ばかりであるからだという。昨年は権太夫が暇を取らされても屋敷へ出入りし、しかも御前の留守の日ばかりやって来て奥に泊まり、又は夜がふけるまで酒食にふけり、駕籠で送らせるので中間をはじめ、夜ふけのことなので皆々が難渋することが度々あるので悪評申立てているという。さらに、権太夫が再勤を許されたのは、権太夫が御前の勤向きや御勝手に差支えないように出金などしたためであろうが、なぜ再勤になったのか名主一同考えるに、おそらく奥方や久太夫よりの勧めがあったに違いない。前にも言ったように、奥方は御隠居様へ預け、権太夫を退役させれば知行所一統は勝手賄いに励むであろう。そうすれば御屋敷は安泰になり、知行所も助かるというものである。
 このように、五郎左衛門は事細かに秋月権太夫と奥方の悪業をならべたて激しい批判を述べているが、領主財政の悪化を用人と奥方たちの遊興ざんまいにあるとし、何も御前は知らされずお痛わしいといいながらも、権太夫の退役と奥方の御隠居様預けなどを進言する背景には、旗本家政を支えるのが知行所の村々であることの自負心と、再任された用人によりさらに借財がかさむことを恐れたことの現われであったといえよう。
 こうした考え方は五郎左衛門一人のみならず、知行所名主一統の共通認識であったため秋月権太夫更迭のための、名主退役願いにつながってくるのである。
 この知行所の名主たちの運動は、三年後の文政十年(一八二七)二月に、中川太右衛門を「地方勝手賄用役」に復活させることに成功した。中川は再任されるとすぐに、大坂表鹿島屋作之助より九〇〇両を借入れた。これは七沢村・金田村の物成一〇か年賦返済で借入れたものだが、勝手向き整理に運用しようとしたものである。中川太右衛門の登場は、当然秋月権太夫の排斥に成功したものと推測できよう。
 以上のように文政期の興津氏は、財政窮乏が深刻化し、約三〇〇〇両以上にも及ぶ借財をかかえ、そのため知行所村々による勝手賄いの実施が行なわれていくようになった。村々の名主たちによって旗本の家政が管理されていくのであった。旗本は財政難をすべて知行地へ転化するわけである。また、賄いを引請け借財の尻ぬぐいを命じられた村々であることからこそ、激しい用人批判や退役願いによる抵抗運動が行なわれたのであり、知行地が旗本財政の窮乏により一層負担を重ねさせられることへの危機感の現われであったといえよう。