常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第六章 庶民文化

第三節 旅に出た人々

 幕藩体制の確立にともない農業技術の進歩、発達はめざましく、さらに諸々の条件が加わり、生産力が高まった。こうした生産力の増強は農民の成長をうながし、引いては農民の上昇を導いたことは先に述べた通りである。しかも、全国に張り巡らされた参勤交代・蔵米の回送、流通経済の発達が交通機関の発達や改善をうながし、社寺門前の宿泊施設・休息施設などを発達させ、このような状況が僅かではあるが農民の生活に余裕をもたらした。
 生活上にある程度の余裕が生じれば、娯楽や遊びを求めるのは世の常であろう。江戸のような大都市では歌舞伎や遊廓が発達して消費文化を支えたが、農村ではこれらに代わるものとして、村祭りや講・村芝居が発達した。なかでも講は信仰による共同体組織で、氏子や信徒が揃って神仏に参詣する総参りや代参講がある。総参りは、たとえば雨乞い、重病のお百度参りなど村全体の祈願や緊急な祈願に試みられた。また、初期には祈願の内容が個人的なものであっても講の構成員全員で共同祈願をしたが、後には個人で祈願するようになり、さらにより高い霊力を求めて遠隔地の寺社に参詣するようになると代参という方法がとられた。代参のなかでも伊勢講などは中世以来の伝統を持っている。また、講とは別に信仰に裏付けされるものに巡礼がある。巡礼も初期には単に各地の霊場を参拝することであったが、後には今日行なわれているような、一定のコースを決められた順序で廻る形態に限られるようになった。
 さて、以上のような信仰にもとづく代参講や巡礼も、生産力の向上によって生じた生活の余裕や交通環境の整備が拍車をかけ、江戸中期頃には信仰的なものから物見遊山的なものに変化していった。というのも、農民の出奔や経済的出費・農耕に支障をきたすことを恐れた幕府や藩は、農民の出国や長期の旅を抑制し、農民の永久的定着こそを政治の眼目としていた。したがって、領民の移動はもちろんのこと行楽のための旅などはもっての外であった。しかしながら、医療のための温泉行とか信仰による参詣までは留めることができず、これらは大目に見られていたのである。特に先に記したごとく中世から盛んであった伊勢参詣は最も優遇されていた。このため代参は信仰に支えられた行動ではあったが、次第に物見遊山の性格をおびてくるようになったのであった。
 しかも、江戸時代の農村は都市に比べて娯楽性に乏しいことは周知のごとくであり、特に日常生活においては都市以上に規制が厳しく、解放を求める気持は町人よりも強かったことであろう。こうした抑圧からの解放を代参講や巡礼にともなう旅が可能にしたのである。ただ、いくら見物遊山的性格を帯びているとはいえ、旅はあくまで代参講における山岳登拝と同様苦行であることにかわりはなく、常に何か起きるか予測のつかない危険性をともなっていた。しかしながら、こうした危険性をもものともせず、人々は競って日常からの一時的逃避の手段として行楽の旅にでかけたのである。
 こうした傾向は江戸時代全般にいえることであり、当町も例外ではなく盛んに旅にでかけている。旅にでる時は、「往来手形」を発行してもらわなければならなかった。本豊田の篠崎育男家所蔵の文書のなかに寛政八年(一七九六)に出された往来手形がある。この名主平左衛門から出された「往来手形之事」では、百姓勝右衛門の伜武右衛門が讃岐国金毘羅山へ参詣するため「所々御関所無相違御通シ可被下候」と記されており、さらに行暮た時は救ってほしいが、長煩いをした時や病死の時はその旨は通達におよばず、そこで葬ってほしいと記されている。この文書からも先に示したように旅は危険を伴うものであったことが理解できよう。当町の人々はこのほかにどのような所に出掛けたのであろうか。たとえば、新井家に伝わる文書を見ると、伊勢参宮はもちろんのこと東北、北陸、富士登山など広範囲に出掛けていることがわかる。このうち、文化七年に伊勢参詣をした時の「道中日記扣」から、当時の人々の旅の様子をみてみよう。
 

Ⅵ-11図 往来手形(本豊田 篠崎育男氏蔵)


Ⅵ-12図「道中日記扣」(本石下新井清氏蔵)

 まず、出掛ける前には餞別を貰う仕来りとなっていた。餞別の持つ意味は一種の別れの表現と考えられよう。旅には困難がともない、なかには生き別れになることもあったので、出発前に旅先の安全を祈って近隣の人々や親戚を呼んで飲食をした。これをタチブルマイ(立ち振舞)と称する。この時呼ばれた人々は餞別をおくったが、所によっては死者の棺に入れる小銭をワラジ銭ということから餞別をワラジ銭とも称しており、葬式や婚礼の儀式が旅立ちの儀礼と類似しているのも同様の意味を持つものといえよう。そして餞別を貰った側では、無事に帰った証として土産を送り、飲食をすることが常であった。ここでとりあげた文化七年の旅でも、「文化七歳参宮餞別帳」に誰からいくらの餞別をもらったかが記されており、帰郷した折には「文化七年参宮土産配扣帳」を作成して、もらった金額によって配った品物を記載している。
 「文化七歳参宮餞別帳」によると一二〇人から餞別を貰っており、親戚や近隣の人々のほぼ全員が送っていることがわかる。なかでも片角村の庄左衛門は「金壱両」を送っており最多金額で一人、次で日野屋(竹村)茂右衛門が半額の金弐分、その下が三〇〇文、七人、二〇〇文、一九人となっている。最も少額は二〇文で、大方は一〇〇文で六二人であった。合計金額は金三両一三貫二〇〇文となっている。餞別を出した人々の出身地域をみると、
 
  館方村 片角村 川ばた 西原 三坂新田 東ノ原 中石下 下宿
  中宿  やばた 新石下 浦宿 上石下  松葉  篠山  伊子立
  原しく 向石下
 
となっており、本石下村とその周囲の地域であることがわかる。このほかに泉蔵院、興正寺の二寺が出している。また、最後に記載してある「御立振舞覚」では、地域ごとに招いた人々の名前が書かれており、計三二人になっている。さらに、「留主居見舞」として二七人の名前が掲げられている。
 こうした餞別に対しどのような物を土産にしたのであろうか。「参宮土産配扣帳」を見てみると、品物の種類がわかる。
 
  ぼん(松地・角) たばこ入 扇子 元結 つけき(附木) かんさし こうかい(笄) 八丈おり 白砂糖
  重箱 ソウリ ハシ 手拭 とふじん(灯芯) 蓋茶椀 黒椀 奈良シぼり 阿婦良(油) 真田 くし
 
などであるが、このうち特に「つけき」については、「其外家別不残西原へつけき斗り」とか、上石下の一八人の名前の書き上げのあとに「ほかへも皆つけき斗り」と注記してあるように、ほとんどの人に配られている。「つけき」とは火口から燈火や焚火に火を移す時に用いる火打ちの道具で、檜・松・杉などの柾目の薄片の端に硫黄を塗ったものをいい、近世に盛んに売り出されていた生活の必需品であった。このように土産物としてほとんどの人々に配られているところを見ると、いかに必要なものであったかがわかろう。このほかに多く配られたものを順にあげると、盆・たばこ入れ・元結で、これらは大抵の場合附木とともにセットで配られている。また、白砂糖は泉蔵院と御寺(興正寺)、睹山の三軒のみである。最後に記されている出費のまとめを見ると、砂糖代として四百文と記載されている。金一両の餞別を出した「片角村 庄左衛門」の名前は見当たらないが、「片角」とのみ記されている個所の土産品に「奈良シぼり・黒椀・重箱・其外」とあり、「其外」のものが盆や附木・元結などの品々を指していると思われることから、品数が最も多いことになり、庄左衛門を指しているものと考えられる。
 こうして土産物の種類をみると、白砂糖や重箱、碗物などハレの特別な日に使用するものもあるが数は少なく、大方は盆・元結・附木・手拭いなどの日常品やたばこ入・かんざし・笄のような嗜好品に類するものが主な土産物であったことがわかる。
 さて、こうした旅立ちの儀式を経て、いよいよ正月十五日に伊勢へ向かって出立した。以下、旅の行程は「道中日記」に沿って作図したⅥ-13図を参照されたい。なお、文中では参考のために県が移るごとに県名を注記し、( )内に現在の地名を記載した。また、一行の人数なども不明である。
 

Ⅵ-13図 「道中日記扣」道中泊休跡図(文化7年正月15日~4月11日)

 江戸へは十七日に到着しており、二十二日に江戸屋敷を立っている。江戸屋敷に挨拶に立ち寄るにあたって、土産もの代として七〇〇文の出費をしたことが、先の「土産扣帳」に記してある。江戸を抜けたのは二十五日で三日かかっている。この日は品川に泊り、途中川崎で休んで翌日は神奈川泊り、次いで藤沢、大磯まで馬三〇〇文、二十八日に小田原の泊り、箱根を越えて静岡県三島の明神に参る。二十九日に沼津泊り、吉原宿まで馬二六四文、富士川を舟(二八文)で下り由井まで駕籠(二〇〇文)、興津で休んで二月一日は江尻泊り。二日府中(静岡)泊り、あべ川・大井川を渡って、三日新坂泊り、掛川を経て、四日戌居(犬居)泊り、途中秋葉山に寄り、さい川を渡って、五日大平泊り、愛知県に入って仏法僧で有名な鳳来寺に参詣。六日、かとや(門谷)泊り、七日、名古屋に入る。
 九日、三重県桑名泊り、四日市から山田街道を通ってかんべ(神戸)、十日白子泊り、上野・津を経て十一日松坂泊り、ここで御手代河竹市郎兵衛が迎えに罷出、酒肴の御馳走になった。いよいよ伊勢宮に近づき十二日、くらたより新茶やへ、新茶やで蒔田氏市郎兵衛ほか料理人四人による弁当酒肴の御馳走があり、駕籠で二見へ向う。そして、いよいよ御師(おし)竜太夫家へ、十二日七ツ時(午後四時)過ぎに到着。御師は下級の神職で太夫名を名乗り、講中が参宮する時は宿を提供して馳走した。十三日、外宮様に参宮、案内人一人・御手代二人で天の岩戸から内宮へ、参宮の後、浅間(朝熊)に参詣。十四日以降二十日まで滞在し、御閑楽(御神楽)などを見たり馳走になったりして過す。ここで目的の伊勢参宮は終了した。日数は正月十五日に出立してから二月二十日までの約一か月間であった。また、この間に使用した宿泊代は記載があるところは一泊二〇〇文とある。交通費は馬一貫八一二文、駕籠二貫一三六文、舟四一二文、川越え二四文、不明六四文となっている。この他の諸費用は記載されておらず、残念ながら旅での生活は知ることができないが、総額は日記の最後に「合金拾両之内」と記されている。しかしながら、合計の内訳は一部のみで終っている。ともあれ、この後は行楽の旅となり、道中記も宿泊地や交通の過程については詳細に記されている。ただ、諸費用はつけられていない。
 さて、伊勢参宮を終えた一行は一旦松坂にもどり、ここで一泊して奈良をめざす。三重県を横断するように進み、二十三日阿保泊。二十四日いよいよ奈良県に入り長谷寺泊り。翌日三輪明神・ありわら(在原)寺、帯解子安地蔵を経て二十五日奈良へ入る。一日間奈良の名所を見学の後、二十六日は郡山に泊る。法隆寺・竜田明神・信貴山・達磨寺・当麻寺を巡り、ここで大坂までの案内人一人を頼む。二十七日当麻泊り、高田から飛鳥・橘寺・岡寺・多武峯を経て上市へ。二十八日は吉野に泊り、高野山に参詣、晦日地蔵院泊り。三月一日三軒や、二日境(堺)泊り、大坂に入る。ここにしばらく滞在し、十四日に伏見より京都入りする。十七日京都を出立し滋賀県に入り、大津・草津を経て石部泊り。ここから酒屋日野屋(竹村茂右衛門)の里である鋳物師村(現朝日野村)へ向い、鋳物師村に九日間滞在した。二十六日に出立、多賀明神に参詣して鳥居本泊り、摺針峠・今須経て岐阜県関ケ原を通り、二十七日赤坂泊り。二十八日太田泊り、二十九日大井泊り、木曾路に入り長野県馬籠・妻籠を通過。四月一日野尻泊り、須原、上ケ松、福島、宮ノ越などを通って三日松本泊り。四日麻績泊り。五日善光大門町泊り。千曲川を渡って植田(上田)に泊る。六日小諸、追分、沓掛などを経て、七日軽井沢泊り。碓井峠を越えて群馬県坂本、妙義山、安中を経て八日高崎泊り。九日埼玉県に入り、熊谷泊り、十日茨城県古河に泊り、十一日帰宅した。
 以上のように文化七年二月二十日に伊勢を立ってから、奈良、大坂、京都、岐阜、長野、埼玉をめぐって四月十一日までの約二か月に渡る旅が、伊勢参宮の名目で出立した行楽の旅である。そして、この旅に費やされた日数は八五日間であった。ちなみに、水海道市に残された同じ文化七年に伊勢参宮に出掛けた時の記録である「道中泊休覚之帳」をみると、こちらは伊勢参宮のほかに奈良、京都、高野、比叡山、金比羅宮、善光寺、秩父三三か所を回っており、やはり九〇日間を費やした旅であった。旅の行程は当町の記録より広範囲であるにもかかわらず日数は五日間多いだけであることから、八五日という日数は、むしろ余裕のある旅であったということができよう。