常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第六章 庶民文化

第二節 庶民の教育

飯島弥三郎父子
小保川光明院境内には飯島弥三郎父子の二面の碑がある。一面は弘化三年(一八四六)建立の「繅谷飯島翁墓表」で、親友であった鴻野山の秋葉格非が撰文し、片角(現八千代町)の中島直(砂山)が書いた碑である。もう一面は、二代目の弥三郎「飯島翁墓表」で吉原謙山が撰文し、曲田の沼尻春斉が書いている。
 飯島父子は、医術を業としながら郷人の子弟の教育に力をつくした人達で、後者の碑は小保川の門人中山橘之助らが中心となって建立したものである。
 
渡辺考庵
 古間木村には渡辺考庵と称する漢方医がおり、医術を業としながら近隣の子弟を集めて開塾、教育の任にあたっていた。現在水海道市に属する伊左衛門新田、大生郷新田等からも勉学に来ていたらしい。水海道市が編んだ「水海道の文人墨客」によると、古間木新田の手賀家から伊左衛門新田の福田家の嗣となった福田氏義の子道義が、幕末渡辺考庵の門弟として勉学している。父が古間木新田出身であったという特殊事情があってのことかも知れないが、他地区からも来ていたことが明らかである。
 
永井民部
 東弘寺域内に、安政四年(一八五七)に死没した永井民部の墓碑がある。永井民部は、常陸国筑波郡高須賀村(現つくば市)の人で山口村に二〇余年在村していた「筆学師」であった。永年山口村にあって子弟を教導したので、村民相はかつて墓碑を建てたといわれているが、実績は不明である。学識ある浪人であったろうか。