常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第六章 庶民文化

第二節 庶民の教育

秋葉格非
鴻野山にある飯沼幼稚園(旧飯沼小学校跡)北側に、県道に面して「人傑地霊」という碑が建立されている。鴻野山の秋葉格非(一八一七~六八)の碑で、撰文、書とも格非の三男吉原謙山のもの。名を誠と称し格非と号した。その碑文中に、
 
  先考自設邸内集子弟教曰雅言人而不知恥不可為人矣
 
という箇所がある。この地方が不便なので、書を読んだり書いたりする者が少ないから、邸内に学習の場を設けて、子弟に文章を教えたり、人たるの道を教えたというのである。これは家塾型教育の例とみることができる。
 長塚節の母たか女は、幕末七歳の頃、同家に寄寓していた大沢順軒に手ほどきを受けたと伝えられるが、こうした例は極めて特殊な例で、多くは寺院または有志の家に行って、集団で教育を受けたのが普通である。
 
木村寛盛・寛敬
 大房東弘寺の正門近くに「木村氏墓石銘並序」という板碑がある。木村寛盛、寛敬父子のため、門弟たちがその徳を慕い、天保十二年(一八四一)九月に建てた碑である。撰文並に書は、三坂新田(現水海道市)の著名の儒者猪瀬愿(豊城)である。
 木村寛盛は、豊田村の出身で、大房木村家(新兵衛)の嗣となった。九鬼侯の江戸詰として仕えていたが、在官七年にして帰郷した。
 碑面に「好書学郷人等託児孫以師之〓〓蒙恩而書学者一百余人也」とあるが、文化年中五十六歳で歿した。「男貞蔵諱寛敬」は「其性純和其才頴而好学而能書而通算而特長於数術」という逸物であったので、郷人また児孫を託して「門弟凡百五十人」という盛況であったが、天保八年(一八三七)七月三七歳で夭折した。碑文中に「其短折可不哀惜乎」とあるが、郷人のなげきもひとしおであったらしく、建碑の議がおこり建てられたのがこの碑で、裏面には「門人建之」とある。
 
中島維昌
 本豊田竜心寺境内には、曲田の中島平兵衛の碑がある。篆額には「講堂修徳時行中島翁碑」とある。撰文並書は中島翁の孫、大花羽村花島(現水海道市)の渡辺華洲である。中島平兵衛は諱(生前の本名)を維昌といい、時行堂と号した。中島維昌は明治四年二月八七歳で没した。碑文に、「剛直而温和事親至孝克遵家訓」とあり、また「立志求豈関師之有無哉」とあるから、なかなかの君士人であり、しかも独学で学を修め道を求めた人であった。従って「郷慕徳従学者頗衆」となり、格非のように私塾形式で郷人の指導に当ったものと思われる。母方の孫に当る華洲もまた幼時この祖父に教えを受けたことをその自伝で語っている。また碑文中に「一日戒家人曰吾将死勿入吾室安臥而逝矣」とあるが、臨終の時は家人を寄せることなく孤り従容として死に就いたという。これは中島翁の「剛直」を示すエピソードとして誠に興味深い。
 

Ⅵ-8図 中島時行翁碑(龍心寺境内)

 
谷田部道教と智勝師
 井上諦円の筆子塚と並んで、山口谷田部家の墓地に、「筆第中建之」の「釈道教」「釈尼智勝」と並記した筆子塚がある。
 台石には、平内・山口・収納谷・三坂・沖三坂・白畑等、筆子の集落名が刻されているが、これからみると、旧石下町の南部と旧三妻村の北部地区の人達によって建てられたものである。
 谷田部家現戸主の話によると、屋敷の一隅に書院があり、そこで道教師が教育をなし、また妻の智勝尼が女子相手に裁縫その他を教えていたらしいということであった。道教居士は文化十四年(一八一七)に生れ安政四年(一八五七)に没したが、単なる手習師匠ではなく、人倫の道を説いた師であったもののようである。
 
護悉院師
 曲田(萱場)集落の栗原家の墓地に、堂々たる「筆子中」の銘ある「護悉院真阿実縁光清居士」の筆子塚がある。側面には、おそらく代表門人の一人であろうと思われる栗原一水の漢文の建立の由来記が刻されている。師についての具体的記述がないので不明であるが、由来記の書き出しに「天三綱五常之道者人倫之彝也」とあるので、単なる読み書きばかりでなく儒教の説く、人倫の道を説いた塾型の教育であったと思われる。嘉永七年の建立である。
 
飯山己之吉
 飯山己之吉は山口の人、明治十年八月五日六九歳で没しているが、筆子塚の碑には、「明治十年二月一日建」とあるから、明輝院釈善徳大居士」の建碑は生前の建碑ということになる。あるいは師の病篤きを知った筆子達が急きょ建立したものであろうか。邸内の書院で教授していたというが細部についてはわからない。幕末から明治初期の塾教育だと思われる。
 

Ⅵ-9図 飯山己之吉筆塚

 
秋葉修身と義之父子
 秋葉(光夫)家から日本大学へ寄託された古文書中に「心堂口授」(宝暦四年刊)、「心学問答」(天保四年刊)等数々の心学関係の書があるが、これは崎房の秋葉三太夫家一〇代の秋葉修身(孫兵衛)が収集した古文書である。修身は、材木、薪炭、海苔、紙等在方商人として種々の商業活動を行ない、天保末期には江戸の相生町二丁目に出店している。修身は文政十年(一八二七)十一月に心学的要素の濃い「秋葉店子教訓記」上、下を著わしている。天保四年(一八三三)には古間木村の中山樹徳とともに「敬親舎」を設置し、周辺の村落指導者達と共に、農村復興のための庶民教化事業をはじめた。運営もまたそうした農民達の協力によって運営されるという方式をとった。石田梅巌(一六八五~一七四四)を始祖とする石門心学は関西でおこり、各地に伝播したものであるが、商業活動でしばしば江戸に上る中、修身が共鳴するに至ってついに「敬親舎」をおこすに至った。石門心学は、農業復興に具体的政策がないということで、天保元年にはその活動も停滞したといわれているが、この期にこの地に心学が導入されたということは特記されてよい。
 修身は分家桃丘の子義之(一八二一~七一)を養子に迎えた。義之は通称三太夫と称し、省軒と号した。養父修が「敬親舎」を設置した天保四年にはまだ一三歳の頃であったが、ここで樹徳や臨時に招かれた講師達の話を聴聞して心学を修めた。のち、父と共に度々江戸に出る機会が多くなると、もともと勉学好きの義之は、黒川春村(はるむら)はじめ、多くの文人学者等と交流を持つようになった。とくに春村とは親交を深め下総国にまとまった国史がないのを憂い、春村の助力を得て「下総国史」の編纂を企て、義之が二〇歳後半から三〇歳代にかけ、着々資料を集め、自らも神社仏閣等に足を運んでは資料収集につとめたり、各地に残存の中世から近世に至る古文書の探訪に出かけたりしたが完成には至らなかった。また義之は江戸滞在中に入手した書籍が三〇〇〇冊に及ぶと「崎房文庫」を設置、鴻野山の秋葉格非らの助力を得て、近隣の文人達ばかりでなく、飯沼周辺の村々の農民達にも解放したという。なお義之は、「江戸繁昌記」著者の寺門静軒や書家の鈴木南嶺らとも交友し、静軒は嘉永六年(一八五三)崎房を訪問し、義之の案内で築山を散策し「仮山記」を書いている。幕末における秋葉修身、義之の教育文化活動は、その規模の大きさと経営方式の新鮮さにおいて特異な活動であったといえよう。
 

Ⅵ-10図 寺門静軒『仮山記』