常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第五章 庶民の生活

第五節 寺院と檀家

Ⅴ-9表により、「興正寺過去帳」にみられる戒名についてみることにしよう。まず子供についてみると、童子(女)の記載がはじまるのは元禄十三年(一七〇〇)以降であり、その多くが二字+童子(童女)であり、乳幼児の戒名の下に付される孩子がみられるようになるのは文化七年(一八一〇)以降である。童子(女)や孩子(女)という子供にまで戒名を受けて葬儀を行なうようになるのは、近世も半ば以降のことといえる。
 
Ⅴ-9表「興正寺過去帳」戒名別人数変遷表
慶長4~
寛文4
36年間
寛文5~
元禄7
30年間
元禄8~
享保7
28年間
享保8~
寛延2
28年間
寛延3~
安永5
27年間
安永6~
文化3
30年間
文化4~
天保7
30年間
天保8~
文久2
27年間
文久3~
明治1
6年間
合 計
□□+孩子(乳幼児)
(0)

(0)

(0)

(0)

(0)

(0)

(1)
110 
(45)
13 
(6)
138 
(52)
□□+童子(男)・童女(女)
(0)

(0)
96 
(32)
136 
(58)
168 
(78)
140 
(63)
155 
(81)
117 
(53)
15 
(5)
827 
(370)
□□□□+童子・童女
(0)

(0)

(0)

(1)
16 
(7)
35 
(9)
40 
(21)
16 
(11)

(0)
114 
(49)
□□+禅定門(男)・禅定尼(女)13 
(5)
198 
(102)
270 
(136)
316 
(163)
270 
(118)
156 
(77)
142 
(67)
55 
(26)
23 
(11)
1543 
(705)
□□□□+禅門(男)+禅尼(女)17 
(8)
60 
(20)
46 
(26)
21 
(14)

(7)

(1)

(0)

(1)

(2)
159 
(79)
□□□□+禅定門・禅定尼
(0)

(1)

(2)

(1)

(2)
72 
(35)
56 
(36)
85 
(41)
33 
(21)
256 
(139)
□□□□+信士(男)・信女(女)
(1)

(7)
66 
(36)
87 
(46)
115 
(60)
116 
(54)
155 
(72)
122 
(57)
46 
(26)
718 
(359)
□□□□+居士(男)・大姉(女)
(1)

(2)

(2)

(1)

(2)

(3)
15 
(10)
27 
(13)
10 
(5)
84 
(39)
□□院□□□□+居士・大姉17 
(7)

(3)
10 
(5)

(3)
13 
(7)

(5)
12 
(5)
22 
(11)

(4)
105 
(50)
全体の戒名数56 
(22)
303 
(141)
537 
(249)
648 
(312)
641 
(292)
580 
(263)
631 
(304)
605 
(282)
175 
(90)
4270 
(1955)
( )内は内数で女性


 
 さて、成人の戒名であるが、寛文四年(一六六四)以前では四字+禅門(尼)が多く、二字+禅定門(尼)もそれについで多いが、元禄七年(一六九四)以前では二字+禅門(尼)がもっとも多くなり、四字+禅門はその三分の一以下になってしまう。一般農民の多くが、寺の檀家として把握されるようになったことが知られる。元禄八~享保七年(一六九五~一七二二)では、二字+禅定門(尼)が最多であるが、四字+禅門が減少し、四字+信士(女)が増加している。四字+禅門のクラスの層がより上位の四字+信士(女)を求めるようになったためと思われる。これ以降、四字+禅門(尼)は減少していき、四字+信士(女)は増加の一途をたどる。また圧倒的に多く、一般農民の戒名であった二字+禅定門(尼)は、寛延三~安永五年(一七五〇~七六)ごろから少しずつ減少しはじめるが、それに対して急増したのが、四字+信士(女)である。一般農民の中で、二字+禅定門からより上位の四字+信士(女)を受けるようになった人びとが存在したということであろう。また、安永六~文化三年(一七〇七~一八〇六)ごろになると、二字+禅定門(尼)は一五六人と、もっとも多いが、さきよりもかなり減少している。かわって増加したのが四字+禅定門(尼)であり、四字+信士(女)は、さきの数を維持している。やはり、一般農民の中から、上位の四字+禅定門(尼)を受けるようになった農民が増加していることを示している。そして、文化四~天保七年(一八〇七~一八三六)では二字+禅定門の一四二人を四字+信士(女)の一五五人が上まわっており、その中間の四字+禅定門(尼)が両者の三分の一ほどで一番少数ということになる。そして、天保八~文久二年(一八三六~一八六二)では、かつては圧倒的に多数を占めた二字+禅定門が少なく、上位の四字+禅定門が多数となり、さらに上位の四字+信士・(女)が最多数を占めており、この傾向を持ったまま明治期を迎えることになるのである。なお、早くから、上層農民には院号居士(大姉)が付されているように記録されているが、実際には四字+禅門(尼)であったものや四字+信士(女)であったものを後になって訂正していることがわかる。最初から院号居士(大姉)が付されるようになるのは、寛保(一七四一~四四)ごろからである。一般農民の戒名がより上位を求めるようになるにしたがって、上層の有力農民は寺院に対して一定の金額を納めて、院号居士(大姉)の戒名を受け、以前の戒名にもそれを付してもらったものと思われる。
 つぎに向石下の法輪寺の過去帳によりみてみよう。それはⅤ-10表のようであり、同寺にも興正寺でみたような傾向がみえる。
 
Ⅴ-10表「法輪寺過去帳」戒名別人数変遷表
寛永21~
天和3
40年間
天和4~
享保7
39年間
享保8~
宝暦13
41年間
宝暦14~
享和3
40年間
享和4~
弘化2
42年間
弘化3~
明治15
37年間
不 明合 計
□□+善童子(男)・善童女(女)
(0)

(0)

(0)

(0)
84 
(41)
84 
(41)

(2)
172 
(84)
□□□□+童子(男)・童女(女)
(0)

(0)

(1)
79 
(42)
74 
(30)
10 
(5)

(0)
173 
(78)
□□□□+善童子・善童女
(0)

(0)

(0)

(0)
16 
(7)
25 
(12)

(0)
41 
(19)
□□〔おそらく+禅門 (尼)〕67 
(35)
345 
(174)
122 
(58)

(0)

(2)

(0)
422 
(213)
963 
(482)
□□+禅定門(男)・禅定尼(女)
(0)

(1)
109 
(56)
47 
(27)
40 
(20)
23 
(13)

(0)
222 
(117)
□□+信行男・信行女
 

(0)

(0)
14 
(9)
34 
(19)

(1)

(0)

(1)
54 
(30)
□□□□〔おそらく+禅門(尼)〕
(4)
91 
(37)
66 
(24)

(1)

(0)

(0)
39 
(17)
208 
(83)
□□□□+信行男・信行女
(0)

(0)
15 
(10)
34
18

(0)

(0)

(0)
51 
(28)
□□□□+信士(男)・信女(女)
(0)
10 
(5)
143 
(77)
145 
(89)
187 
(102)
57 
(30)

(6)
550 
(309)
□□□□+清信士・清信女
(1)

(2)
46 
(24)
97 
(51)
107 
(54)
112 
(54)

(0)
369 
(186)
□□社□□□□+清信士・清信女
(0)

(0)

(0)
42 
(13)
38 
(19)
32 
(15)

(1)
113 
(48)
□□院□□□□+居士(男)・大姉(女)
(0)

(0)
11 
(6)
11 
(6)

(3)

(0)

(2)
29 
(17)
全体の戒名数82 
(41)
598 
(269)
929 
(419)
834 
(410)
753 
(353)
497 
(237)
536 
(264)
4229 
(1993)
( )内は内数で女性


 
 まず一般農民の子供に戒名が付され、過去帳に記録されるようになるのは天保三年(一八三二)ごろからである。成人についてみると、江戸初期には二字+禅門(尼)が圧倒的多数を占め、四字+禅門は少ない。ところが享保八~宝暦十三年(一七二三~六三)では二字+禅門(尼)は激減し、少し上位の二字+禅定門(尼)とより上位の四字+信士(女)が急増している。この変化がみられるのが元文三年(一七三八)である。元文四年以降、二字+禅門(尼)は、ほとんどみられなくなり、それまで、あまりみられなかった二字+禅門(尼)や四字+信士(女)が同年より恒常的に記録されはじめる。ところが、宝暦十四~享和三年(一七六四~一八〇三)では、さきに増加した二字+禅定門(尼)は減少している。四字+信士(女)は数を維持して最多となり、それよりも上位の四字+清信士(女)が急増しているし、さらに上位の社号+四字+清信士(女)が、それまで皆無であったのに対し、明和七年(一七七〇)以降記録されるようになっている。これ以降二字+禅定門(尼)は少なく、四字+信士(女)が最も多い。四字+清信士(女)がついで多数を占め、社号+四字+清信士(女)も二字+禅定門(尼)とほぼ同数になるが、のちには上まわっているのである。
 以上のように、農民たちが経済力に応じて、より上位に位付される戒名を求めていき、寺院も経営上の必要性から、それに応じる形をとったために、戒名にいくつかの位階を設ける結果となったが、それは農民たちの間にどのような差が生じていたのかを示してくれているのである。