常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第五章 庶民の生活

第四節 晴(ハレ)の生活

当時の人々にとって村の祭りや節日、御祝儀(結婚、建前)、不祝儀(葬式)などのハレの日には、普段の食べ物とは違った〝変わりもの〟が食べられるというので、その日を楽しみにしていたのである。
 まず村の祭りでは「氏子とも打ち寄り神酒御供物差し上げ候。其の節村方米五合持ち寄り、所有り合せ品にて一汁賄い候」(文政十三年「村方仕来書上帳」鴻野山村同新田)とあり、鎮守の神に神酒と米などの供物を供え、有り合わせの食物で神人共食の直会をしていたのである。その供物や食物については、当時の祭りの諸掛帳・勘定帳や民俗伝承から推測できる。例えば宿の近世後期の「天満宮御祭礼諸掛帳」の中には供物である食品として神酒・鮒・はや・豆腐・鰹節・蓮根が記されている。この他に赤飯・けんちん汁・煮物などが用意され食されていたようである。また、村の小祠の神仏の祭りにも普段とは違ったものが食べられていた。尾崎村左平太新田の「村仕来り」(秋葉光夫家文書)には、巳待・かのえ(庚)待が「壱ケ年に六度つつ」「米五合つつ持参」して「宿廻りにて」「夕飯賄い」があったことが記されている。この他に三夜待、十七夜待、十九夜待、地蔵講、観音講など(崎房村「遊日定帳」弘化元年)が行なわれ、米の飯が食べられた。
 正月や盆などの節句や稲・麦の作業の折り目の際にも年神や家の神・作神・先祖を祭り、餅やうどんなどの変わり物をこしらえて供え、家族で食べていたものである。とくにうどんは変わり物の代表的なもので、盆正月の前には小麦を石臼で挽く作業があり、これをセチビキ(節挽)という。
 この他変わった供物には、初午の祭りにスミツカリという大根・にんじんをオロシですりおろし、鮭の頭・大豆・酒粕・油揚・酒・葱を加え煮て酢・醬油・砂糖で味付けしたものを、村の神仏や家の屋根・氏神(稲荷)に赤飯とともに、藁ツトに入れて供えた。このスミツカリは北関東に分布する初午の行事食で、すでに近世期には作られていた。
 こうした祭りの際に米の飯や変わり物を食べることができたので、人々はその日の来るのを心待ちにして、日々の辛い生活や労働にも耐えていたといえよう。
 次に婚礼の食物についてみることにする。まず、当時も婚礼の儀式にはなんといっても酒は欠かせないものであった。その最初の儀式であるタルイレ(樽入れ)、クチガタメ(口固め)には清酒一升を半分ずつ婿方・嫁方で飲み、縁談の承認をしたものである。さらに嫁迎えのゲンザン(見参)またはムカエダル(迎え樽)の儀礼でも、イワイダル(祝い樽)に酒一升を婿方から嫁方へ持っていくし、夫婦契りの盃であるアイサカズキ(合い盃=三三九度のこと)で、結婚の祝宴が行なわれ、この冷酒をもって夫婦及び両家の結合の確認をしたものである。また、オチツキモチ(落着き餅)といって嫁が婚家に落ち着くようにとの意味で、餅を雑煮の中に入れて食べる習慣もあった。
 婚礼の料理は家の格式や階層によってかなりの相違があったようで、小農民の場合は酒・うどん・赤飯・けんちん汁・芋の煮付け・きんぴらといった質素なものであったことが民俗伝承から窺える。それに対して名主や組頭・百姓代の村役人クラスなどの豪農層では、かなり豪華な料理がだされていたことが「料理献立覚帳」や「婚礼諸掛帳」といった史料から理解できる。
 その一例として、すでに紹介されている本石下の旗本興津氏の割元名主であった、新井家の安政六年(一八五九)二月二十四日の「覚帳」から、その献立をみてみよう。
 客はランクに応じて時と場所を変えて饗応を受けたが、親類・縁者などの本客は、二十四日の未上刻(午後一時)から辰上刻(午前七時)まで、茶・菓子・酒・吸物・嶋台から始まり、三三九度の後、鱠皿・坪・飯・汁・香物の本膳、茶椀・平・猪口・汁の二ノ膳に刺身と台引・さらに酒・肴・硯蓋に続き、茶と菓子が出され後段となり、吸物・大平・丼のほか刺身に吸物二種が加わっての酒宴となる。次いで翌二十五日辰上刻には、本膳に吸物・硯蓋・刺身のほかウドン・猪口・皿・吸物の後に茶が出されて巳中刻(午前一〇時)にやっとお開きとなる。
 続いて二十五日朝四ツ時(午前一〇時)から夕八ツ時(午後三時)まで村の饗応があり、翌二十六日は、近所の人々で後片付けを行ない、夕片から三ツ目祝いとしての酒宴が催されている。さすがに二十七日は家内で休息をとっているが、次の二十八日には昼九ツ半時(午後一時)から、檀那寺となっている興正寺や泉蔵院の僧侶一同を招いて、再三の饗応が行なわれた。また同家では酒造を行なっていた関係から、その蔵方や帳場の人々さらに子供達を残らず集めて別座を設けると共に、蔵働きの従業員にもウドンを遣わすといった振舞いを行なっている。その後も逗留を続けた婚家の客が帰る三月七日に、茶から始まって本膳、二ノ膳に至る酒宴が設けられている。
(原田信夫「江戸と地方の料理文化―近世後期の利根川流域を中心に―」『列島の文化史四』一九四、五頁から引用)
 その数々の豪華な料理も村人の手によるものとみられている。いずれにしても、この婚礼料理は村でも特殊な事例ではあるが、当時の料理文化の一端を知ることができるし、村におけるこうした最上層の婚礼の料理は、村人一般の祝儀にも少なからず影響を与えたものと考えられる。
 なお、婚礼の際に村の若者達がその祝いと称して、酒や料理を強要する習慣もあった(天保四年向石下村「村方規定」増田務家文書)。
 不祝儀の料理を民俗伝承から見ると、出棺前に来客に食事を出す習わしがあった。その食物は、近所の葬式組の人々によって作られた飯・汁物・がんもどき・こんにゃくなどが、平膳にだされたものである。
 この他人生の儀礼である出産の孫祝いや、疱瘡の完治祝いにも人寄せし、振舞事をしていた。