常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第五章 庶民の生活

第四節 晴(ハレ)の生活

動的で華かな祭りということでは、大杉囃子もその一つとしてあげることができ、囃子を奏しながら村内を巡幸する形態がとられていた。この大杉囃子は稲敷郡阿波村(現桜川村阿波)に本社がある大杉神社の信仰に由来し、近世中期以降、流行神的様相を帯びて広く関東・東北地方に普及したものであるが、豊漁をもたらす神、疱瘡をはじめとする疫病を防ぐ神として信仰されてきた。一般にアンバ様と通称されているが、今日の石下町域をはじめ利根川流域では、疫病除けの神として信仰されてきた。
 嘉永元年(一八四六)、上石下・西原両坪で取り決めた文書から、囃子を奏しながら村内を巡幸し、疫病の防止を祈願した様子がうかがえる。その文書によると、天保十四年(一八四三)までは両坪が共同で行なっていたが、分郷になったため両者が別々に行なうようになった。そこで不都合な点も生じてきたので、行事の期日が異なる場合は、「上石下組より十一面観音へ参詣の節は 前刻に西原坪へ沙汰致し」、連絡を受けた西原では「中石下出口橋より忠次郎橋迄 往来筋差支えなき様」取り計らい、西原坪で大杉囃子を施行する場合は、上石下が忠次郎橋から八幡迄の往来を支障のない様に取り計うなど、両者の間で取り決めがなされたのであった。
 

Ⅴ-13図 大杉神社(篠山)

 さらに右の文書は分郷になったとはいえ、従来の祭祀形態を守ろうとする村人の意図をうかがうことができ、領主側の都合によって行事のあり方全てを、変えることができなかったことを示すものではなかろうか。そうしたことでは近世中期以降、農村で盛んになる芝居や手踊りなどもその一つであり、領主側では祭りの華かさは浪費につながり、芝居や手踊りは農作業の懈怠につながるものとして幾度となく禁止している。しかしながら、農村にとっては神事とともに祭りの雰囲気を盛りあげる余興の部分にも力を入れるようになり、またそれが村人の一体感を強める性格をもっていることから、禁止されている芝居や手踊りを催すことも少なくなかった。
 文政十三年(一八三〇)、花嶋村、倉持村、横曾根村、三坂村、本石下村、三坂新田の都合六か村から関東取締出役湯原秀助に提出された「願上」は、鎮守の祭礼の際、若者たちが芝居や手踊りを催したとして取り調べを受けることになったが、若者たちは風邪をひいているため、その日延べを歎願しているものであり(新井清家文書)、嘉永元年に豊田村から大熊左介に出された願いも、豊田村百姓勝五郎が、隣村の子供たちに手踊の振付け指導をしたとして取り調べを受けているが、そうした事実は全くないという弁明をしているものである(新井清家文書)。