常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第五章 庶民の生活

第三節 衣・食・住

家屋の普請は農閑期に行なわれ、親戚や近隣の人々の協力が必要であったし、それにも増して職人の存在は最も重要であった。そこで家普請に関わった当時の商人と職人についてみよう。
天保九年の「農間渡世書上帳」(前掲史料)に、材木商売が崎房村に三軒、孫兵衛新田に一軒、鴻野山村に一軒あったし、職人には大工をはじめとして木挽(製材)・杣取(伐採)・屋根屋(萓手)・建具屋・左官・石工・畳指がおり、彼らの手間代をみると文政十三年(一八三〇)の場合には、次の申し合わせがあった。
 
  大工
  建具屋
  木挽   但[金壱文に付手間代九人]
  桶屋
  屋根屋  但[金壱文に付手間代拾人]
  杣取   但[入手間一日銭百四拾八文宛]
                          (鴻野山村・同新田「村方仕来書上帳」前掲史料)
 
 では普請はどのようになされたか。かなり不明な点が多いのだが、民俗伝承を中心に「家作入用帳」や「棟上諸入用覚帳」などから、その過程と儀礼を紹介する。
 まず、名主を務めていた草間家の普請を覚帳で見ると、嘉永五年(一八五二)六月から材木の準備を始めて十一月一、二日に家壊し、同月四日から六日に地固め、同八日から六日間萱刈り、同二十二日から四日間地形、十二月二十三日に棟上げ、翌六年正月二十五日から三日間屋根葺、その後屋内の造作が始まり、二月二十七・八日壁塗りが行なわれて、完成は八月ころと見られる。また、新井清家の慶応元年(一八六五)の母屋の図面に「地形初め三月十四日、柱立初三月二十六日・四月九日右両日の内、井戸掘四月二日、古井戸埋四月四・五日」の予定が記されており、「上棟 慶応元年五月二十五日 家移九月二十九日」とある。こうした史料から大きな母屋の普請には、約一年近くの日数を要していたと推測される。次にその主な工程と儀礼を述べていくことにする。
 
 (1) 梁や大黒柱といった材木は持山の立木か近隣の山林の木を買い集め、モトヤマ(杣人)が切りだした。
   木の切り初めを「山入り」といい、酒を山の神に供え仕事の安全を祈ったものである。山から運び出し
   た丸太は木挽職人によって板や角材に製材された。この他当時材木屋が営業していたので、そこから購
   入することもかなりあったようである。
 (2) 次に普請の着手は大工の仕事初めである「手斧立て」の祝いからである。新石下ではこの時大工が丸
   太を手斧で数か所削る儀礼があったという(嶋田尚「茨城の建築儀礼」『茨城の民俗』二〇号)。
 (3) 古い家屋を壊す「イエボッコシ」をしてから基礎の作業に移る。
 (4) 家を建てる土地を整地して、地祭りをする。近世期には大工の棟梁がその司祭者を務めていたようで
   ある。
 (5) 地固めまたは地形は、家屋の柱を立てる場所を整地し、礎石を突き込む作業であって、大きな母屋の
   普請等には櫓を組んで丸太を引き落とす方法がとられたが、一般にはタコ突きという簡単なやりかたで
   あった。
    蔵持村の草間伊左衛門家で嘉永五年(一八五二)に建築した際には、「地かため」「地ぎょう」に七日
   間延べ三二人の村人が動員されている(「家作入用并人足覚帳」草間良信家文書)。
 (6) 建前は柱を最初に建てる「柱立て」の儀礼から始まり、棟を上げ終った時に「棟上げ」の儀礼を行な
   う。その司祭には大工の棟梁が当たり、礎居とこの柱立てが最も重視されたようで、棟梁はその秘密の
   口伝を持っており、礎居・柱立てをする吉日の選び方と祝詞等が伝えられている(「年代不詳「大工秘
   伝并柱立之事」浅野茂富家文書)。この儀礼は現在の建前の儀礼とほぼ同様と見られる。
   前述の草間家の棟上の記録からみると、まず「建初め」に御神酒が供えられてから棟上げが行なわれ
  た。この際に村内や親戚から行器一五(餅)、酒五樽と御神酒二本、縄、祝い金などが贈られている。ま
  た、当家で用意したものには、木挽や大工など総ての職人に御祝儀、御祈禱料、建初めの神酒、直会の料
  理として豆腐・鮪・酒・儀式の用具には棟上道具(女の化粧道具と見られる)、水油、阿以紙、五色布、扇
  子、足袋、草履、おさご(御洗米)、鮒、昆布、芹、酢、むきみ、色紙、西の内(和紙)、釘などで、その費
  用は「米七升八合、金弐両壱分弐朱十一〆三百文」であった。
   建前の儀礼を篠山地区の事例から見ると、大工の他に職人と主人・親族が棟に上がり、大工の棟梁が手
  作りの幣を立て、破魔弓を立てて近親が祝いに持参した餅と銭をまくという(今瀬文也「住まいの民俗」
  『茨城の民俗』一三)。
 (7) 建前が済むと屋根ふき作業に入る。屋根材は麦藁や葭・萱・杉皮が使用されたが、中でも萱が多く用
   いられた。
   その萱は入会の萱場から刈ってくるもので、この作業を「萱刈り」といい、草間家の場合には同年十一
  月中の六日間延べ八人の人手を要した。その萱や麦藁などを用いて、当地方の筑波流を名乗る萱手職人が
  村の手伝い人を梃子に葺上げた示林梅次「関東の草屋根ふき」『日本民俗学』八十号)。なお、当町には
  萱場の萱を年に二人ずつ刈るカヤ無尽があったという。
 (8) 屋根葺で最も重要な工程はグシ(棟のこと)を作ることであり、これが終わると萱手の親方が中心とな
   り、グシマツリをして完成を祝うと共に、家内安全・家運隆盛を神に祈願した。その際にグシ見舞いと
   いって、親戚近所から豆腐や魚の切り身が贈られた。草間家の史料には、「まとい祭り」と記され酒と
   萱手に祝儀が出されているし、新石下でも棟梁や屋根屋を酒肴でもてなしたという(嶋田前掲資料)。
 (9) 屋根葺が終わると篠竹を裂いて柱の間に細かく格子状に壁の下地を編み、壁土に藁を切り込みこねた
   ものを塗り付ける「壁塗り」があった。この作業は左官の仕事であるが、家族と親戚・近所の者で行
   なってしまうことも多かったようである。草間家の場合には二日間七人の手伝いで壁塗りを完成させた。
 (10) 造作には大工の床・天井張り仕事などがあり、終れば建具職人によって戸・障子・襖入れ、畳指(畳
   屋)によって畳が入れられる。
 (11) こうして完成した新しい家屋に引っ越すことを、ヤウツリ(屋移り)とかワタマシといい、お祝いをし
   たものである(嶋田前掲資料)。
 
 家普請は多額の費用と人手を要したので、数代に一度といった程度であったようである。