常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第五章 庶民の生活

第三節 衣・食・住

次に母屋について見ると、屋根は寄棟型で、麦藁・葭・萱を屋根材にしたカヤブキ屋根・ヨシブキ屋根が多かった。家の造りは近世期にはツノヤと呼ぶL字の曲がり屋や二棟造りが豪農には見られたというが、多くは直屋である。その間取りは田の字型の四間取りが一般的であり、経済的に豊かな家や村役人の家などに八間取りがあった。
 当時の四間取り型の屋内の構造と、そこでの生活を伝承から再現してみたい。まず家の入口はトボクチといい引き戸を開けてダイドコロに入る。ここは土間になっており、雨の日には脱穀・調整作業や冬場のヨワリ(夜業のこと)として縄ないや俵編みの農作業を行なうところであって、何時も掃き清められていたという。家によっては座敷にあがるところにアガリハナと呼ぶ幅一間(約一・八メートル)の板敷があり、ここで客にお茶をだすことが多かった。ダイトコロの奥の部分に炊事場があり、カマド(ヘッツイともいう)とイロリが作られている。カマドの上にはオカマ様が祀られて田植え仕舞に稲苗、正月に供物が供えられた。イロリは生活の中心の場であって、カギツルシまたはガッツルシ(自在鈎)が吊るされて、そこに鉄瓶を掛けてお湯を沸かしたり、鍋を掛けて煮物などしていたものである。しかし、イロリのない家もかなりあった。その燃料といえば山(平地林)からさらってきた落ち葉や、粗朶・麦藁などであり、山林の開墾をしていた時には木の根を燃やしたものである。鬼怒川の東部地域では平地林がほとんどなかったので、燃料の確保に苦労したようで、川の流木を拾って使用したという伝承もある。
 土間の一画にはウマヤ(厩)があり、そこに貴重な労働力を提供する馬が飼われていた。本豊田村の享保十九年(一七三八)の「馬御改帳」(篠崎育男家文書)によれば、当村には二七軒の家に、一疋ずつの馬(男馬一七疋、女馬一〇疋)がいたことが記されており、当時の家数は不明であるが、その二三年後の宝暦七年(一七五七)に家数七五戸であったという記録から推測すると、約四割の家で馬を飼育していたことになる。こうした農耕馬は家の中で家族に見守られながら大切に飼われていたようである。
 座敷に上がると、表側にヘヤまたはヒルマザシキ(昼間座敷)、オモテザシキ(表座敷)と呼ぶ座敷があり、神棚に大神宮様が祀られている。さらに帯戸を開けるとオクデシキ(奥座敷)で、普段の日は戸主夫婦の寝室にあてられていた。近世期にはこの部屋だけに畳が敷かれていたといい、その他の部屋は板張りか、その上に筵か茣蓙が敷かれていた家が多かった。この表側の座敷は人々を招く婚礼や葬式、祭りの宿といったハレの日の振舞ごとに使ったもので、家の公的空間となっていた。
 裏側の部屋に回ると炊事場の脇にウラザシキ(裏座敷)があり仏壇が祀られている。ここは朝夕の食事や家族団らんの場所であり、子供の寝室にも当てられたりもした。その奥はネドコ(寝床)と呼ばれる若夫婦の部屋で、出産の場ともなっていた。こうした裏側の部屋は普段の生活の場であり、来客を気にすることのない私的な生活空間といえる。
 ここでは四間取り型について見たが、近世期における北関東の小農民の民家は二間取りが多く、床張り部屋と土間に藁や筵を敷いた土座の生活であった(貝原益軒『日光名勝記』正徳三年)ということから、当地方でも同様の状態であったと察せられる。また近世農家の母屋は軒が低く、屋内が日中でも暗いのが特徴であった。
 

Ⅴ-11図 東野原旧家の母屋(天保3年建築「石下町の民俗」より)


Ⅴ-12図 台所の様子(落合信氏提供)