常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第五章 庶民の生活

第二節 稲作と畑作

町域内の耕地のうち水田は、鬼怒川を境として東側に豊田谷原と呼ばれる平坦な水田地帯と西側の台地に入りくんだ谷津田、そして一口に「飯沼三千町歩」といわれる飯沼干拓地帯に広がっている。これらの水田の多くは近世期以来人々の努力によって開拓と用排水路が整備され、豊かな穀倉地帯となったものである。一方畑地は大部分が鬼怒川西部の結城・猿島台地上に分布し、平地林や原野であった所を開墾したものである。
 当地方の耕地の土質はアクト(肥土)とノガタ(野方)と呼ばれてきた。アクトは主として豊田谷原など沖積世の低湿地であったところの腐食土壌をさすもので、豊田の地名が示すように肥沃な土地である。文化五年(一八〇八)の本石下村「村差出明細帳」には「田方は三分二真土 砂地三分一に御座候」とその割合が記されており、この真土がアクトにあたるものであろう。対してノガタは、多く鬼怒川西部地帯の土地を指し、「田方の土地は赤土にて御座候」と享保十五年(一七三〇)の孫兵衛新田「村鑑指出帳」にあるように、火山灰質の赤土で稲作には適さないものであった。
 さて、近世期の農業は水稲栽培が主となっていた。その水田のうち豊田谷原や江戸中期に干拓された飯沼などは条件のよい水田が多かったが、台地の間に入りくんだヤツダ(谷津田)や泥深く日影の湿田であるヌカリッタとかフカンダ(深田)、テジロッタ(手代田)と呼ばれる田の整備は遅れた。伝承によると、湧き水のあるフカンボと呼ばれる田の耕作は、腰まで入ってしまい、ワタリ板(棒)という竹や木でできた板を碁盤の目状に埋めておき、その上をナンバという田下駄に履いて作業しなければならなかったという。よそから来た嫁には、その田やワタリ棒の場所を知らないと危険であるからフカンボの仕事には「笠を被れ」と言ったもので、蔵持地区にはフカンボに牛がはまって死んだという伝承さえある(『蔵持の民俗』東京女子大学民俗調査団)。
 こうした深田は年貢割付の等級では、「下の下田」またはその下の「見付田」(粗悪地)と格付けされた、生産性の極めて低い土地であって農作業も大変な苦労が伴った。この他「農業覚帳」(天保八年、秋葉いゑ子家文書)の中には「ほまち田」の記述があり、注目される。そこは田植え終了の祭りであるサナブリの翌日に、女や子供たちによって田植えが行なわれた。〝ほまち〟とはへそくりの意で、沼地を小規模に干拓して作った田であって、嫁や子供たちが小遣いを得るために耕作したものといえよう。
 台地上のノガタの畑地には陸稲・麦・粟・稗・綿などの作物が栽培されていたが、「畑方は砂地にて麦作いたし候にも春風にて砂吹立て諸作不出来仕り候地面に御座候」(天保九年 崎房村「村差出書上帳」)とあり、孫兵衛新田の天明二年(一七八二)「「村差出明細帳」にも、当村の畑方一五町七畝五歩のうち下畑が三町五畝歩、砂畑四町二反七畝一八歩、葭畑六町三反七畝歩、その他が屋敷畑などであって、全体として生産性の低い劣悪な畑が多かったことがわかる。
 このようにノガタでは土質も立地条件も恵まれていたとはいえず、そのうえ風水害や干ばつにしばしば見舞われ、当時の農民の生活は苦労が絶えなかったようである。以下近世後期の農民の主要な生産活動であった米・麦・粟・稗作りを見ていくことにするが、その史料は極めて少ない。ただ栗山新田の旧名主秋葉いゑ子家所蔵の農事記録「農業覚帳」(天保八から同十二年)が、近世後期の当地方の農業の様子を知る手掛かりになるので、この史料(以下「覚帳」と略記する)を中心として、さらに農具や伝承などの民俗資料を用いて、農民の生産活動の一端を明らかにしたい(なお表中の月日の記述は出典文書に従った)。
 
Ⅴ-1表 孫兵衛新田の秋葉家の農事
月 日作            物農耕儀礼と
祭りその他
諸  作  物
 5月 5日節供
   7日少々田植初め
  10日葭くるみ
  12日綿蒔き直し
  13日裸麦刈り
  14日田植(黒わせ)
  15日
  16日本田の粟蒔き雇い丑松
  17日新田の麦刈り雇い同人
  18日田植(御前餅)
  19日田植(いせ縁・餅)
  20日代搔き・田植(いせ縁)
  21日代搔き
  22日ヲサキ堀の田植林蔵・おとり・兵助
  23日古苗間の田植
  24日尾崎堺荒くの田植雨天
  25日尾崎堺・瀬戸の田植両田とも残らず
  26日苗代の葭くるみ←――――裸麦返し雨天にて
  27日古堀・尾崎堺の葭くるみ
と苗取
  28日苗代の田植,上割東の代
搔・田植,西向荒く代搔
雇い丑松
  29日上割の田植麦三反揚げる雇い丑松
  晦日(是れ迄に一町程田植え
仕候)
荒くの麦揚げ土手向の
稗片切り
半夏
 6月朔日裸麦打ち
   2日本田畑小麦刈
   3日本田畑小麦刈
麦つき
――――――――――――→方切りもの 
林蔵
   4日小家下の代搔
   5日苗取と三角の田植
   6日小家下の田植雇い丑松
   7日苗代の葭くるみと田植サナブリ
   8日ほまち分沼の田植女・子とも
   9日土手向の西瓜片切り
  10日香取東の粟片切土手向一番畑の片切り
  11日六右エ門堀木綿畑の草取
小豆蒔き
  12日香取前の粟片
切の後―――→
←――――
土手向の
稗抜き
――――――――――
←―――――――――
又左エ門 林蔵 兵助
おるい おとら
  13日稗のため出←―耕し共雇い丑松,雷雨
  14日小麦残らず打稗のため出←―耕し共雇い丑松
  15日西新切の田の草雇い丑松 祇園 ウドン
  16日麦つき油大豆の草とりと植え
共たばこ苗植
  17日田の草(黒わせ・消夏餅)粟の草取土用
  18日麦つき粟ため出と耕きみ抜き,大豆草取
きみため出と耕
  19日麦こき大豆の草取と耕
芋の草取
少々雷雨
  20日前壱反割の田の草取仕舞大豆の草取と耕雷雨
  21日芋のため出し耕あふや(青屋)に付き
昼より遊び
  22日新堀古田,東新切壱反の
田の草
いんげんくね結い
  23日東新切田の草仕舞西瓜こいためと耕
  24日香取前と東の
粟抜と耕
  25日堤苅り払い昼より休
  26日こさ刈り扶持人丑松
  27日香取東の粟耕稗畑こやし
と耕
雇い常蔵,丑松
  28日古苗間の田の草昼よりうどんにて遊び
雇い常蔵,扶持人丑松
  29日上割尾崎境の田の草取雇い常蔵
 6月朔日尾崎境の田の草取小勢にて取る
   2日尾崎境の田の草取残らず
   3日瀬戸の田の草取
   4日沼の田の草 少々
   5日かた場の田の草取
   6日麦打ち雇い丑松
   7日麦打ちたばこのこやし
   8日麦打仕舞香取前の粟留切り雇い常蔵
   9日小家下の田の草取馬場の麦つき――――――――――――――――――――――→林蔵が手伝いに行く
  10日三角其外沼の田の草取
残らず仕舞
馬場の麦つき――――――――――――――――――――――→林蔵が手伝いに行く
当日盆仕入れ
  11日大根畑耕し種蒔き
  12日つき挽き盆仕度
  13日馬のこい出し盆仕度
  23日稲荷前の蕎麦蒔き
  26日蕎麦蒔き
  27日麦つき
  28日麦つき
  29日麦つき
  30日麦つき
 8月16日稗切雇いおさわ
  18日粟稗切物雇い常蔵
  25日本田粟切り雇い常蔵,おさわ
  26日粟打ち雇い常蔵
  28日刈り仕舞(黒わせ)
  29日刈り(御前餅)
  30日刈り(御前餅)
 9月朔日刈り仕舞(御前餅)
   3日本田の株返し雇い常蔵
   6日小麦蒔き
  13日沼堅場の稲刈り雇い常蔵
  14日三角・東新切の稲刈雇い幸次郎,軍蔵
  20日こばれ打ちえんどう畑の耕し雇い常蔵
  21日古堀の稲刈えんどう蒔き
  24日裸麦蒔き
  25日畑耕し雇い常蔵
  26日畑耕し雇い常蔵
10月12日麦蒔き仕舞雇い常蔵
  21日稲刈り雇い幸次郎
  22日稲刈り雇い幸次郎
  23日稲刈り雇い幸次郎
  24日稲刈り雇い幸次郎
  25日稲刈り雇い幸次郎 常蔵
  26日稲刈り仕舞
11月 8日籾摺雇い常蔵 幸次郎
   9日籾摺雇い常蔵 幸次郎
  11日籾摺雇い幸次郎
  17日籾たて 籾摺雇い常蔵
12月13日すすさらい 雇い常蔵
外に3日もみひき エシゴト
「農業覚帳」(天保8年)より作成