常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第四章 産業と流通の発達

第三節 農間渡世と町場

では、町場の様子についてⅣ-11図から概観してみよう。この絵図は「下総国豊田郡上中本石下邨入絵図面」(新井清家文書)と題されたもので、明治初年のものと思われる。上石下・中石下・本石下が合併して本石下村が成立したのは明治十一年であるから、この絵図が描かれたのは少なくともそれ以前ということになる。したがって、まだ江戸時代の様相が色濃く残っているものと思われ、町場の形成状況を知るための貴重な史料といえよう。
 

Ⅳ-11図 下総国豊田郡本,中,上石下村入会絵図面

 絵図によると居屋敷は三ブロックに集中していることがわかる。この絵図を現存する小字に落して地域を割り出してみると次のようになる。北から南に向けていえば、原宿十一面を中心として卯月並に南北に広がる地域、西上組・東上組の大部分をV字形占める地域、そして石毛山興正寺の南部に広がる上宿・中宿・川端・御城・松葉浦の一部などを含む地域で、三集落のなかでは最大の面積を有していた。そして、「天保十四年本石下村市場商人渡世向調帳」(新井清家文書)によると、市場はこの地域の「愛宕山大権現」の西側・東側・裏に開設されていることから、この地域が町場の中心的役割を果たしていたものであろう。しかしながら、町場といっても以上の三集落を除くとすべて田畑で占められており、ごく小規模の町場であったものと思われる。
 さて、市場の設置された場所を絵図で指すと興正寺の南東端に現二九四号線の中央に社があり(○印)、ここが愛宕山大権現で、ここを中心に西側と東側・裏側に、在所を初めとする近在近郷の村々からの出店が立ち並んだ。Ⅳ-5表は天保十四年の史料に、店を出している者の出身地名で、今も大字として残っている地名から村の位置を補完して、作成したものである。なお、経営者の出身地について『茨城県史料 近世社会経済編 一』に収録の同史料中、「吉沢」「鳴子山」とあるのは、「吉沼」「鴻野山」の読み違いであり、文書自体の筆記ミスの「東原」「内沼」は、「東野原」「吉沼」のことである。そこでⅣ-4表では正しい地名をカッコを用いて記した。また、「天保十四年本石下村市場議定書」(新井清家文書)によると「一 銘々屋敷地先え村内並他村商人参り見世掛候節、地代店賃抔請取不申万事実意ニ世話致遣可申事」とあり、市場に地所を持っている者とその土地を店借して商売する者がいたことがわかる。先の「市場商人渡世向調帳」では店の市場における位置、次に人名が記され、次に商品名・村名・人名が箇条書にされている。そこで最初の人名を地所の所有者と解釈し表を作成した。
 
Ⅳ-5表 天保14年本石下村市場商人渡世向調帳
市場の立った場所場所の
所有者名
商     売出身地位     置経営者
愛宕山人権現 西側三郎兵衛あま酒西原鬼怒川左岸沿い,本石下の北部平七
青物・にこり居見世本石下同人
    同伝左衛門にこり西原鬼怒川左岸沿い,本石下の北部五左衛門
まんちう広吉
にこり上石下本石下より分村伝六
青物・豆腐居見世本石下同人
    同小左衛門居酒屋上石下本石下より分村直右衛門
青物向石下鬼怒川右岸沿い,本石下の西部吉兵衛
    同源兵衛穀物・わた中石下本石下より分村小兵衛
    同長左衛門からし西原鬼怒川左岸沿い,本石下の北部孫右衛門
       東側伊八郎たはこ居見世本石下民蔵
肴や清助
    同八まん仕立物中石下店借本石下より分村友吉
木綿類西原鬼怒川左岸沿い,本石下の北部辰蔵
    同弥右衛門下太居見世本石下
    同源兵衛にこり居見世本石下同人
わた・穀物上石下本石下より分村利右衛門
    同利兵衛かこ・熊手小保川鬼怒川と小貝川の間,本石下の北東伝吉
    同喜左衛門香具羽子村鬼怒川中流左岸,現千代川村吉五郎
居酒向石下鬼怒川右岸沿い,本石下の西部宮次
愛宕山大権現 うらあめ椎木村小貝川右岸,豊田とも称す勝五郎
    同仙 助小間物類・其外居見世本石下
    同弥右衛門まんちう新石下鬼怒川左岸,本石下の南部定吉
にこり東野原鬼怒川左岸,本石下の南部六蔵
まんちう中石下本石下より分村孫兵衛
    同左平太あけ物新石下鬼怒川左岸,本石下の南部小次郎
泊り屋居見世本石下喜右衛門
    同藤兵衛木綿・紙類皆葉村鬼怒川中流右岸,現千代川村金左衛門
にこり居見世本石下金蔵
荒物上石下本石下より分村与右衛門
穀物   〃作右衛門
    同久兵衛魚物新石下鬼怒川左岸,本石下の南部小次部
もちかし   〃彦兵衛
青物三坂村鬼怒川下流左岸,現水海道市由兵衛
青物上郷小貝川中流左岸,現つくば市富五郎
       東側権兵衛魚類三坂鬼怒川下流左岸,現水海道市周蔵
青物上郷小貝川中流左岸,現つくば市仙吉
穀物新石下鬼怒川左岸,本石下の南部栄作
髪結同人
    同伝左衛門からし本石下茂左衛門
熊手・ほうき吉沢(沼)村小貝川左岸八兵衛
穀物新石下鬼怒川左岸,本石下の南部八十松
湯屋・泊屋同人
古着物・万石新石下鬼怒川左岸,本石下の南部善兵衛
    同平左衛門とうみ・膳腕(ママ)類栄次
足袋・はらかけ中石下本石下より分村儀右衛門
にこり居見世本石下平右衛門
    同武右衛門からし居見世本石下
       西側伊兵衛穀物本石下
    同弥兵衛本石下
にこり居見世本石下太市
       西側玄法庵古金 〃幸助
青物居見世本石下与五左衛門
水油川はた本石下の川端惣左衛門
穀物新石下鬼怒川左岸,本石下の南部文平
金物 〃庄左衛門
宮田本石下の宮田庄吉
にこり居見世本石下喜右衛門
       西側薬師前魚売うら本石下の浦宿庄右衛門
新石下鬼怒川左岸,本石下の南部栄吉
問屋      ?甚右衛門
たはこ居見世本石下同人
青物大房村鬼怒川左岸,本石下の南部政次
       西側久右衛門にこり東原(東野
原)
鬼怒川左岸,本石下の南部武平太
青物上郷小貝川中流左岸,現つくば市忠助
魚類新石下鬼怒川左岸,本石下の南部金次郎
種物類大房村鬼怒川左岸,本石下の南部利兵衛
生か内(吉)沼小貝川左岸,現つくば市幸右衛門
古着小保川鬼怒川と小貝川の間,北東部左兵衛
    同喜兵衛紙手拭三坂村鬼怒川下流左岸,現水海道市太十
かゝみ研加賀      ?七左衛門
      〃四郎右衛門
まんちう新石下鬼怒川左岸,本石下の南部巳之助
手桶・熊手類椎木小貝川右岸,豊田とも称す清助
古金居見世本石下同人
       西側平十郎木綿・小間物新石下鬼怒川左岸,本石下の南部万作
たはこ      〃紋蔵
荒物同油店      ?園吉
酒・穀物居見世本石下茂右衛門
にこり・青物鳴子山(鴻野山)鬼怒川右岸,本石下の西南部惣七
    同五郎左衛門かし・にこり中石下村本石下より分村一右衛門
するめうり吉沢(沼)村小貝川左岸,現つくば市権兵衛
青物東野原村鬼怒川左岸,本石下の南部久蔵


 
 これによると店舗数は全部で八三軒、市場に場所を所有している者が二五人で、このほか八幡・玄法庵・薬師の寺社が持っていた。店の経営者と土地の所有者が同じ場所は八三軒のうちの八軒で、残りの七五軒は店借の者ということになる。さらに本石下村内の者は四一人で、約半数の四四軒(うち三軒は地域設定が不明)は隣村・近郷か岸の現大穂らの者である。地域でいえば、最も人数の多いのは新石下村で一九人、新石下村の南部に位置する東野原・小貝川左町の吉沼・同じく三坂村・現つくば市の上郷から三人ずつ、本石下の北に隣接する鬼怒川と小貝川の間の小保川・小貝川の右岸で豊田とも称する椎木村・東野原の西部に隣接する大房村から二人ずつ、鴻野山、現千代川村の皆葉村から一人となっている。こうしてみると、本石下を中心として東西南北から、人々が集結していることが理解できよう。
 商売としては愛宕山大権現うらの左平太所有地内喜右衛門経営の「泊り屋」、同じく「湯屋・泊屋」が東側の地所持ちでもある平左衛門の経営で営業されている。また、東側には「髪結」もあり、地所持ち兼経営者の伝右衛門が営んでいた。また、他村には見られない商売で「かゝみ研」が西側の甚兵衛地所内に二軒、東側の八まんに「仕立物」が一軒ある。ただ、「かゝみ研」の経営者として名を連ねる七左衛門・四郎右衛門の出身地は「加賀」と記載されているが、近郷にはそうした地名は見当らず、加賀国の出身者という意味であろう。居酒屋は二軒で崎房村の五軒など他村と比べると少ない。しかし、商品として「にこり」と記された、にごり酒を扱っている店が一二軒あり、酒の消費はむしろ多かったといえよう。
 さて、市場ではどんな物が売られていたのであろうか。まず商品の種類から見てみると、最も多いのは「にこり」に次いで「青物」一一軒、以下順に「穀物」九軒、「まんちう」(もちかし・かし)などの嗜好品、「魚」類を扱っている店が七軒ずつ、「からし」「たはこ(たばこ)」三軒ずつ、というように食糧に関する商品が上位を占めている。しかも常食の穀物・青物・魚などに混じってまんじゅう・たばこが好まれており、江戸時代の人々がこうした嗜好品を好んで食していたことがわかる。このほかは農具や日用品が中心であるが、なかに香具をという記事がある。現在の香具師(やし)のことであろうか。若しそうだとすれば、これは縁日や祭礼などの人出の多い所で見せ物などを興行し、粗製の商品を売る商売である。すでにこの頃このような商人が市場の中で商いをするようにまでなっていたのであろう。これは東側喜左衛門地内羽子村の吉五郎の出店であるが、くわしいことは不明である。
 以上表から述べてきたように、江戸時代の当町の中心は本石下村であり、町場としては小規模であるが、本石下村を根拠地として隣村を含む周辺から八三軒の出店が愛宕山大権現の東西・裏に立ち並び、商品数四〇種を数える市場が開催された。この市場は六歳市と称され、毎月四と九の日に開かれていた。ところが「市場商人渡世向調帳」の奥書によれば、この頃在方(村落内)で勝手に商売する者が増えたことが記されている。このため、市場に集る商人が減り、御公儀からの達しで市日には内商などせずに市場において売買するよう要請が出され、市場が衰退している様子がわかる。つまり、この頃になると商品流通が公的機関を離れて個人単位で動く傾向にあることが理解され、ひいては、農間渡世の隆盛を窺わせており、町場と在方の商品流通における補完関係が変化しつつあることが推察できよう。