常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第四章 産業と流通の発達

第三節 農間渡世と町場

農間渡世の種類はたきぎ取りや炭焼などの山仕事、街道筋の賃稼ぎなどの労働のほかに技術を要する機織りや各種の小売りなど多種多様である。当地域については本石下の新井家に伝わる文化五年の「村差出明細帳写」に「一 農業之間男女職之事  但男は馬草薪を取縄莚織申候 女ハ木綿織申候」とあり、男は馬草刈りや薪取りの労働のほかに縄や莚を編み、女は木綿を織っていたことがわかる。これらの労働は自らの農業および生活にとって不可欠のものであり、自給自足の生活を物語っているものと思われるが、文政四年(一八二一)の「栗山新田村鑑明細帳」(秋葉いゑ子家文書)に「当村ゟ産物左之通御座候」として「蓮根 西瓜」の書上があり、「右之外村内ゟ他売出候もの無御座候」と明記されており、畑作物が商品として売られていたことがわかる。また、天保十四年(一八四三)の新井清家文書「下総国豊田郡本石下村市場商人渡世向調帳」にも、商品として「わた・からし・たはこ・青物・穀物・木綿類」などが記載されている。
 米・麦・大豆・小麦・小豆・胡麻・稗・粟などが主要な作物であったが、商品作物としては茶が最も重要な作物であった。畑中村の増田家の文書からは慶安元年にすでに茶を作っており、馬場村の秋葉家に弘化四年「茶改永遣出し帳」、安政三年「茶役永わり合」などがあることからして、江戸時代を通して商品として生産されていたことがわかる。
 また、同じく商品作物の一つとして紅花がある。それは各種の史料に散見し、たとえば、本石下の吉原家に残された寛永十九年(一六四二)の「本石毛村巳ノ御物成納日払方之目録」に「紅花之代」として「永 一貫五百七拾六文」、寛文五年の「辰ノ年下妻領田畑御年貢并小石売上ケ金納目録」にも「紅花代永六百四拾弐文」と記載されており、この頃は紅花が盛んに栽培されていたものといえよう。しかしながら、この後の、栽培状況に関しては史料が見当らず明らかにすることはできない。
 以上のような商品作物の生産のほかに、農間渡世の主要なものとして小売業がある。馬場村の秋葉家所蔵「農間商渡世被仰渡御請証文」によると、文政十年に諸商人軒数並びに居酒屋・髪結床・大小拵研屋などの名寄せを書き上げさせているが、残念ながら記載部分が欠落している。そこで、約一〇年の隔たりはあるが、当地域を含む天保九年の「下総国猿嶋郡結城郡岡田郡沓掛村崎房村外五十弐ケ村商渡世向取調書上帳」(秋葉光夫家文書)によって、どのような商いが営まれていたのかを補完してみよう。
 

Ⅳ-10図 現在の商店街

 同文書には五二か村の内、当地域の村一一か村に関する農間渡世が記録されている。それは崎房・孫兵衛新田・左平太新田・馬場・馬場村新田・栗山村新田・鴻野山・鴻野山村新田・古間木・古間木沼新田・古間木村新田であり、すべて鬼怒川の右岸、町の西部に位置し、享保年間に行なわれた飯沼干拓に従事した飯沼廻りの二三か村に含まれる。これらの村々の概観について同史料から窺い知ることがらをⅣ-4表にまとめてみた。なお、村の位置は現在の石下町における大字によるものであり、さらに農間渡世の種類は数の多い順に記載した。
 
Ⅳ-4表「天保九年猿島郡結城郡岡田郡五二か村農間渡世書上帳」
村   名位   置村高人別家数農間
商い
諸職人
渡世
種     類軒数備   考
崎房
(名主は四兵衛)
町の西部,北・西は八千代町9334116616居酒屋渡世5
 
うち1軒が市左衛門,
1軒が又五郎
豆腐・油揚商売5
下駄足駄拵ひ4
穀商売3
財木・真木商売3
穀・呉服・太物2
小間物・荒物・瀬戸物商売1
穀・太物・小間物・荒物・
瀬戸物商売
1又五郎
米穀塩商売1孫兵衛
小間物商売1
古着商売1
油絞り商売1
茶商売1又五郎
蒟蒻商売1
豆腐・油揚・蒟蒻・青物商売1孫兵衛借宿
玉子屋商売1
蒸菓子・干菓子商売1
紺屋商売1孫兵衛借宿
鍛冶屋商売1市左衛門借宿
醬油造1孫兵衛
剣術稽古仕候4うち2人が孫兵衛忰
孫兵衛新田
(江戸往来,人休泊,諸荷物津出し河岸場がある。名主は孫兵衛)
町の西端,南は猿島町・北西は八千代町5491433114蒸菓子・干菓子商売
居酒屋煮売
菓子打卸
魚商売
小間物振売
小間物商売
3
2
2
2
2
1
うち孫兵衛借宿が2軒
うち孫兵衛借宿が1軒
 
うち孫兵衛借宿が1軒
 
孫兵衛借宿
煮売渡世1
髪結・煮売1
糓商売1
魚・青物商売1
鳥・魚商売1
豆腐・油揚商売1
古着仕立物商売1孫兵衛借宿
材木・真木商売1
左平太新田
(名主は左平太)
町の西部,南西は猿島町288136266小間物・菓子
居酒屋渡世
2
1
うち借家が1軒
煮売渡世1
魚商売1
髪結渡世1借家
馬 場
(名主は源次郎)
町の北西部,北東は千代川村63190463居酒屋・煮売渡世
煮売渡世
1
1
小間物類商売1組頭
馬場村新田
(同上)
町の西部,南西は猿島町2113982居酒屋並煮売渡世
煮売渡世
1
1
栗山村新田
(名主は弥惣治)
町の西部,南西は猿島町142130293居酒屋渡世
穀商売
2
1
 
名主 弥惣治
鴻野山
(名主は周助)
町の西部,南端を東仁連川が流れる5662284818穀商売
干菓子類商い
豆腐商売
3
2
2
うち組頭2,名主1
南蔵院店喜兵衛,平吉
うち1軒が平吉
綿打渡世2
居酒屋1平吉
髪結渡世1南蔵院店喜兵衛
煮売天秤渡世1
穀・太物・荒物・瀬戸物商売1
材木商売1
附木商売1
附木渡世・青物天秤商人1
魚天秤商人1
油屋商売1
鋳掛渡世1
紺屋渡世1組頭 兵左衛門店
鍛冶屋渡世1
馬喰渡世1
剣術稽古仕候3うち名主忰 1人
鴻野山村新田
(名主は周助)
町の西部,南西は猿島町10997167居酒屋渡世
青物天秤商人
2
2
穀商売1
油屋商売1
下駄屋商売1
綿打渡世1
古間木
(名主は宇右衛門)
町の南部,東は水海道市587287617居酒屋渡世
穀商売
豆腐・青物商売
2
2
1
豆腐商売1
髪結渡世1
古間木沼新田
(名主は善左衛門)
町の南部,鬼怒川と東仁連川に挟まれた地域19155102菓子類商売
青物商売
1
1
 
古間木村新田
(名主は佐兵衛)
町の南西部,南は岩井市・南東は水海道市・南西は猿島町832043312居酒屋渡世
煮売渡世
蒸菓子商売
3
3
2
振売商人2
髪結渡世2
穀商売1
菓子打卸1
魚商人1
作馬商売1


 
 まず、立地条件の上から当地域の最西端に位置する崎房村についてみてみよう。崎房村は町場である本石下から最も離れた場所にあり、北と西は現在の八千代町に接する。畑作中心の地域で南部には飯沼干拓で開発された水田地帯が広がる。村高は当地域の中では最も多く、九三三石であり、人別も最多の四一一人となっている。農間渡世に従事しているのは総家数六六軒のうち一六軒で、一八軒の鴻野山村に次いでおり、その職種も二一種でおなじく鴻野山村の二二軒に準じている。職種の多い順に上げてみると、居酒屋渡世・豆腐・油揚商売が五軒ずつ、下駄・足駄拵ひ四軒、穀商売・財木・真木商売が三軒ずつ、穀・呉服・太物・小間物・荒物・瀬戸物商売二軒となっている。あとは食べ物や日用雑貨に関する商売が一軒ずつで、穀・太物・小間物・荒物・瀬戸物商売、米・穀・塩商売、茶商売、蒟蒻商売、豆腐・油揚・蒟蒻・青物商売・玉子商売、蒸菓子・干菓子商売、油絞り商売の八軒、古着商売、紺屋商売の衣料に関するもの二軒、農具の手入に欠かせない鍛冶屋商売一軒である。
 さらに冥加金永四五文を上納して醬油造も行なっていた。醬油を造っていたのは米・穀・塩商売を四〇年(寛政十年)以前から行なっている孫兵衛で、彼は崎房村の南端に造成された新田の開発者としてその名を残し、孫兵衛新田の名主をも務めている。当地は江戸へ行く近道にあたることから人々の往来も多く、休憩場所や宿・諸荷物を津出しする河岸もあって賑っていた。したがって農間渡世の職種も蒸菓子・干菓子商売、菓子打卸など嗜好品に関する商売が多い。また、当地で農間渡世を営む者は一四軒であるが、このうち孫兵衛の借家が六軒を占めており、開発の中心的人物である孫兵衛の力の程が窺えよう。
 さて、崎房村の一六軒の農間商い軒数に対し職種が二一種書き上げられているのは、表の備考に記した孫兵衛や又五郎の例でわかるように、一人の人物が種類の異なる商売を営んでいることや、市左衛門や孫兵衛のように店を貸している者がいることによるものと思われる。この点は農間渡世の軒数が最も多い鴻野山村でも指摘される。当村は南西に飯沼干拓の水田地帯を有し、孫兵衛新田の東側に位置する。ただこの村は崎房村と同じく町場から離れた立地条件であるにもかかわらず、崎房村と異なる農間渡世を示している。たとえば、崎房村で一番多いのが居酒屋五軒であったのに対し、ここでは穀商売で居酒屋は一軒のみであった。また、崎房村にはない綿打・附木・油屋・馬喰渡世があるほか、魚・青物の天秤稼ぎがいることが当村の特色であろう。つまり、農間渡世のなかでも日賃稼ぎが多いことを示しており、鴻野山村は崎房村に比べ、より自給自足の生活を色濃く提示しているといえよう。
 さらにいうならば、崎房村については石下の町場から離れているという立地条件を裏返せば、隣接する現八千代町に最も接近していることになり、むしろ隣村との繫り方が日常生活の上で重要であったであろう事は、容易に推察できよう。したがって崎房村は鴻野山村に比べて農間渡世の職種も多彩で、活気のある様相を呈していたと考えられる。このように、町場から離れた条件下にある隣接した村であっても、周囲のさまざまな事情によって村の様相が異なり、あわせて農間渡世の内容も異なってくるのである。
 それでは、鬼怒川左岸の農間渡世はどのようなものであったのだろうか。史料の制約があり、「書上」のように地域の全容を把握することはできないが、新井家所蔵の盗難に関する文書から散見する農間渡世を拾って見ると、個々の商いの内容・家族構成などを具体的に知ることができる。たとえば本石下村の年寄仙助は高二〇石余を所持し、家族五人で農業を営むかたわら小間物・荒物などの商渡世をしていた。ところが嘉永二年(一八〇〇)十月に戸締まりを忘れたため盗難に遭い、銭箱をはじめとして「銭五〆文余・実綿五〆目 代金二分」を盗まれた。また、上石下村の百姓平七は農間に小間物・太物商いをしていた。文久元年三月八日夜半に抜身を持った盗賊に押し入られ、「金三分・銭一貫六百文位・木綿茶大名嶋男袷一枚・同小の手嶋男単物・同あい嶋女袷一枚・同紺横取嶋女単物一枚・十文の紺足袋七足位・傘一本・小納戸裏木綿三反・三留古風呂敷一枚」を盗まれている。
 さらに、本石下村の百姓孫右衛門は高三石余で家族六人暮しをしており、農間に糀渡世をしていたところ、文久三年(一八六三)六月に裏戸口を押開けて賊が侵入し、「紅花一〆目余・鼠紺竪嶋男単物二枚」を奪われた。紅花については、嘉永五年に上石下村の七左衛門が、単物などと一緒に背負い駕籠にいれた「紅花六百目位」を盗まれている。これらの紅花は当地で栽培したものかどうか明瞭ではないが、少なくとも幕末期に至るまで、商品とし流通していることが指摘できよう。
 次いで、上石下村の百姓次郎右衛門役介為次は次郎右衛門から別家し、升酒売り並穀物・綿等売買渡世をしていたが、万延二年(一八六一)二月に面体を隠し抜身を持った二組の強盗が裏口土台下を掘って押し入った。盗品は「くり綿五貫目・志のまき六百目・売溜の銭一貫文程・酒一升」である。また、農間渡世として古鉄買をしている者もあり、本石下村の亀吉は「鉄扱一梃を金二匁二分三朱で買い取り、二匁三分二朱で売り払い一分」の儲けをあげていた。
 以上、あげたように町場における農間渡世で扱う品物と他村のものとの比較は史料の性格上できないが、いずれにしても日常生活の必需品であることにかわりはない。しかも五、六人から一〇人前後の家族を単位とする商業経営は零細で、他村と同様農間を利用して生活を補充する以上の利益は、もたらさなかったであろうと思われる。ただ、他村と明らかに相違する点がある。それは本石下には市場が設けられていることである。そこで扱われる商品をⅣ-5表で見てみると、Ⅳ-4表に現われた他村の商品に比べ、はるかに多彩で商業活動が盛んな町場の様子が推察できよう。