常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第四章 産業と流通の発達

第二節 鬼怒川通りと飯沼廻り

享保年間(一七二〇年代)に飯沼干拓が始まる前は、飯沼は満々と水をたたえる大湖沼であった。周囲の崎房村・馬場村・鴻野山村・古間木村の人々は、この湖沼に生活の糧を負うところが多かった。古くは、彼らの生業の中心は魚猟であり、入江状の湿地帯をわずかに耕作するといった生活が長くつづいた。人々は湖沼からとれた魚猟や藻草で少しずつ土地改良をすすめ、享保の干拓直前頃までには、鴻野山村などでは安定した土地生産性を示すまでになった。
 彼らに自然の豊かさを提供してくれる飯沼も、交通の面からは彼らを狭い地域に閉じ込めた。現在の飯沼地区の中央に位置する鴻野山村などは、「南北西三方湖ニシテ、東ニ往来のみニテ、中くびれの瓢(ふくべ)の形ニ似タリ」といった状況だった。したがって、なにかにつけて足を船に頼らざるをえなく、当時は「家数八十三軒、人数四百八十三人、作馬七十匹とならんで、大船三十艘、猟船八十五艘」を一村で所有していた(秋葉紋子家文書『鴻山実録』、秋葉いゑ子家文書『鴻山実録』)。
 周囲を飯沼をはじめ、入沼・瀬戸沼・古間木沼などの大小の湖沼に囲まれた飯沼地区に大変革が起きたのは、享保九年(一七二四)から始められた飯沼新田干拓事業によってである。周囲の湖沼は次々と干上がり、荒砂の地があちこちに出現し、それまでとれた魚猟も藻草も一切とれなくなってしまい、それに追い打ちをかけるように干拓の雑費が人々の生活を苦しくした。一方、新田地には周囲の村々や下総国葛飾郡・武蔵国幸手領などから入植者(入百姓)があいつぎ、「飯沼廻り」の景観は一変する。
 

Ⅳ-8図 飯沼廻り54か村麁絵図(秋葉光夫氏蔵)