常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第四章 産業と流通の発達

第一節 諸産業の発達

当町は鬼怒川と小貝川の二つの川を有しており、当然漁業が盛んであったものと思われる。ただ、洒造のように地場産業にまで成長はしなかったようであるが、文化五年(一八〇八)の「村差出明細帳」をみると、「鮭運上 永弐百廿五文ツヽ上納仕候」と記されており、鮭が沢山のぼってきたようである。因みに、昭和三十年代までは鬼怒川をさかのぼる多くの鮭の姿を目にしたという。
 江戸時代の税は米が中心であることはいうまでもなく物成と称され、このほかの税は小物成という。漁業に従事した漁師にかけられた小物成は網役・網代といった。網の大小にかけられる場合や漁村全体にかけられる場合があったが、篠崎育男家所蔵文書に本豊田村の小貝川の網代に関するものがある。宝永八年(一七一一)に出された証文であるが、これによると、網代を上納する人数を一三人から一六人に増やしたとある。つまり、本豊田村には漁撈に従事していた者が一六人いた訳である。そして、宝暦二年(一七五二)のものには
 
  一 小貝川網代御運上の儀、先年伊奈半兵衛様御代官所の節は、初鮭御城様へ年々差上げ申候事
 
と記され、小貝川の網代として初鮭を上納することとなっていた。同家文書の寛政十二年の書付には網代は「鮭 一尺ツヽ」と記されている。さらに、網代の変遷について次のような事情の記述がなされている。当村の小前百姓のうち特に困窮した者が漁撈に従事して年貢を上納する助けとしていた。それが寛文七年(一六六七)に永五〇〇文ずつ上納することとし、さらに困窮の者は農業の間に撈漁稼ぎを行なって年貢を納めるよう定められた。しかしながら、享保二年(一七一七)に魚・鳥の運上は取り止めとなり、魚・鳥の品々で上納することに改められた。そこで「鮭 二尺」ほかに「うなぎ」などが上納された。
 網代漁業の最低条件として水が澄み、魚が集積する環境が必要であることはいうまでもないが、河川にはもう一つ交通機関としての重要な役割があった。関東では利根川と鬼怒川など下野を南下する諸河川は、北関東と江戸を直結する交通路であったが、次第に江戸への商品流通路として利用されていった。たとえば、鬼怒川の筏川下げは近世初頭から行なわれており、鬼怒川筋の村々では天和年間に、売木荷物を筏に組んで運行していたという。
 近世中期になると鬼怒川筋の都賀・河内・塩谷・那須・芳賀郡の広域から板・貫・竹・角丸などの挽木類が筏に組まれて下っていった。鬼怒川を下った筏は江戸川に入り、深川木場・本所の問屋に引渡され、商品として売買された。近世後期になるとこうした筏下りは益々盛んになり、筏荷主は筏仲間を結成して自分たちの利益を守るようになった。組合は川辺組と日光御神領組の二組に別れ、江戸の繁栄にともなう需要に答えるべく活動していた。
 こうした活発な輸送活動はしばしば、川筋で網代漁業を行なう人々の間に争論を招くことになった。たとえば明和九年(一七七二)十一月十日に小貝川が濁流となり、川役永を上納し漁撈してきたが、このままでは運上場として差し障りがあると訴えている(篠崎育男家文書)。また、天明元年(一七八一)には片角村で争論が起きた。これは十一月十三日に芳賀郡竹下村忠右衛門の筏が、片角村にしかけた網代に乗り上げ、網を破壊させてしまったことに発する。網代の持主の六郎兵衛はただちに訴えたが、これに対し筏師は網代漁業者が故意に網代場に小篠を立てて川幅を狭め、筏川下げの妨害をしたと主張した。結果は筏師が理不尽に網代を破ったものではないとし、鬼怒川の出水の影響も大きいとして和解が成立した。また、六郎兵衛が網代を通過する筏から通行銭として、筏乗り一人につき鐚一〇〇文・四人乗り四〇〇文を取り立てていたことを中止することも決められた。この争論の場合、網代漁業者は運上を上納していることで、権利の主張を貫徹したといえよう。そこで、筏川下げについても運上を上納しようとする運動が起きる契機となった(伊藤好一「鬼怒川における近世の筏川下げの発展と網代争論」『東国民衆史』第三号)。このように、河川に頼って生活する網代漁業者と、河川交通の発達は相容れない状況を内包しつつ、共存していったのである。
 

Ⅳ-2図 網代漁業争論関係史料(篠崎育男氏蔵)