常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第三章 用水と新田

第四節 飯沼干拓

享保九年(一七二四)十月に入り、沼廻りのいたる所で杭を打つ音が鳴りひびいた。沼廻り二四か村の本田と飯沼との境に杭打ちが開始された。同年十二月二十五日、沼廻り二四か村の村役人は沓掛村(現猿島町)の香取神社に集合し、神前にて干拓事業の無事成就を祈願し血判の起請文を作成した(現八千代町秋葉五郎兵衛家文書)。一方、干拓に必要な排水路も井沢の実地踏査と指導によって、従来から「新堀派」が主張してきた堀筋を変更し、馬立入沼から幸田・神田山両村(現岩井市)地内を経由し、神田山新堤下で菅生沼へ掘り継ぎ、同沼経由で利根川へ排水する全く新しい「新堀」開削方式が採用決定された。開削工事は、同十年一月十日から着工され、工事請負人は、江戸深川木場の中屋甚兵衛ら江戸や武蔵国内の六名であった。彼ら元請の下に下請者がおり、沼廻り村々の農民を一日一〇〇文の賃金で普請人夫として雇っていた。同年五月一日には飯沼の排水が開始されたが、上流や周縁部からの悪水処理には一本の排水路では不十分なことがわかり、急遽、沼の中央に別の排水路を開削しなければならなくなった。二本の排水路開削工事は、同十二年中になってようやく完了したが、未だ排水能力が不十分で、堀の掘り下げ、横堀の開削等の追加工事が次々と計画・実施されていったのが実情である。しかし、上流の江川及び周縁部からの悪水が沼に集中するかぎり、折角新田を造成しても水害にあうのは必至であった。このため飯沼に悪水が集中しないようにする方策が立案され、東仁連川と西仁連川の開削工事が計画された。開削工事は、同十一年に着工されたが、排水能力が不十分で飯沼への悪水流入が続き、再三の大雨にも対処できなかった。その都度改良工事が必要になり、工事費用も重い負担となった。同十二年の東仁連川開削工事は、沼廻り二三か村の自普請とされ、費用は一三五八両に見積られたが、この額は到底二三か村で賄える筈はなく、一〇〇〇両は幕府からの拝借金とし、残りは他借調達ということになった。また工事は当初は村々請負形式で行なう予定であったが、村々請負は不馴れのため、同年三月崎房村三太夫・大生郷村伊左衛門・大口村彦兵衛・神田山村武右衛門・平塚村弥七の五名に工事請負を依頼した。また東仁連川に関連する橋や樋の工事請負は入札を行ない、橋は尾崎村武兵衛と崎房村久左衛門、樋は古間木村四郎兵衛が落札した。このように飯沼干拓に付随する諸工事の費用も次第にかさみ、幕府拝借金一万両貸与とはいえ、工事の都度、細分貸与であったため、沼廻り村々が直接負担する費用も相当額に及び、干拓事業の動向は、沼廻り村々農民にとってぬきさしならぬ状況となっていった(長命豊『飯沼新田開発』)。
 

Ⅲ-7図 沓掛香取神社


Ⅲ-8図 起請文(八千代町秋葉五郎兵衛氏蔵)

 先に井沢の尽力により貸与されることになった幕府拝借金一万両は返納が義務づけられていた。当初の計画では、享保十、十一両年間における飯沼新田地の出来米半分を上納すれば決済できると考えられていた。しかし享保十年の作付けは少なく、その年の返済分にも苦慮し、代官池田喜八郎に訴願したが、せめて一〇〇両でも返済せよとの強い指示が下った。早速、同年五月、干拓事業からの脱退を表明した横曾根新田(後の横曾根古新田)を除く二三か村は村割りして一〇〇両余を工面し返済しようとしたが、代官池田からは、さらに返済額を追加するようにとの指示が下った。村々は急いで二回目の村割りを行なって一一〇両を工面して返済しなければならなかった。二三か村としては、出来たばかりで不安定な新田地という困難な状況下、苦慮しながらも始めて拝借金の一部を返済することができたのである。翌十一年の返済金については、幕府当局も態度を軟化させ、作柄状況をみる検見を実施し、返済額は二〇三四両余と算出された。今回は、実地検分に基づいた返済額であったことと、二年目で作付けが向上した結果、この年の返済額は全額返済することができた。しかし、返済すべき残高は気の遠くなるような額であり、沼廻り二三か村農民にとって、返済金はきわめて重い負担であることにはかわりがなかった。当初の享保十・同十一両年で全額返済する計画は始めから破綻し、新田地からの収獲は少なく、却って農民の生活は苦しくなっていったのである。同十二年七月、同年から同十四年まで返済金を三か年延べ願いを提訴するに至った(『飯湖新発記 上』)。しかし、幕府当局の返済命令は熾烈をきわめ、同十二年の返済額は三一一〇両余と指示され、沼廻り村々は翌年七月までに収獲された米を換算して、同十二年分の返済額を皆納することができた。享保十三年以降の返済については明らかではないが、飯沼干拓は幕府拝借金を資金にして実施され、拝借金返済については、年延べしても数か年で全額返済する予定であった。しかし、干拓直後は、新田地の生産はきわめて不安定であり、新田検地実施後、一〇数年にわたる年賦分割方式の返済を余儀なくされた。それだけに新田農民を含めた沼廻り村々農民の生活は苦しく、享保改革の年貢増徴策と相まって、農民たちは、夫食(飯米)拝借や種籾拝借といった形で執拗に抵抗をくりひろげながら、少しでも新田の安定を目ざしたのである(長命豊『飯沼新田開発』)。
 このように沼廻り村々農民の辛苦と願望によって出来つつある新田地は、当初、幕府から村高に応じて配分割するように指示された。しかし、沼廻り村々が協議した結果、村高割では村々の大小、飯沼地先新田地の大小、村内百姓の大小等、千差万別であり、一率に高割することは困難であると主張した。沼廻り村々の考えは、新田地の半分は村高割、残り半分は村々平均割にする。また、沼廻り村々の内、飯沼干拓を希望しない農民が多数存在する村は、名主一人請新田とすることであった。この在地状況に根ざした新田地の配分割案は早速受理され認可されている。享保十年、絵図面上において新田地の総反別は二五〇〇町歩と算出され、最初の配分割が決定した。この際、配分割は各村地先を優先させたことは勿論であるが、先祖代々飯沼干拓に奔走し、沼廻り村々の代表として、幕府当局との交渉、干拓計画の立案、沼廻り村々間の利害の調整等に功績のあった新田頭取四名(崎房村三太夫、尾崎村左平太、馬場村源次郎、大生郷村伊左衛門)に対する新田地各一町歩の付与が決定された。さらに、「大生郷村天神之義ハ飯沼附第一之大社ニ付、新田願為成就初発沼廻り村々願状を以新田地反別三拾町歩寄附可仕と相定置候」(『飯湖新発記 上』)とあるように、沼廻り村々農民の崇敬が厚く、いわば地域の信仰の拠り所でもあった大生郷天満宮への土地寄進が決定した。また、「此度分地相済候所、横曾根新田名主組頭惣百姓御新田望無之候」(『飯湖新発記 上』)とあるように、享保十年五月に飯沼干拓事業からの脱退を表明し、「古堀派」の中心的存在でもあった横曾根新田(後の横曾根古新田)分の新田地を、取上地にすることが決定した。
 こうした中で飯沼の干拓工事自体は急ピッチで進み、同年六月晦日までには干上り反別は七〇〇町歩余に達した。しかし、すでに作付け時期には遅れ、収獲減が必至の状況となり、結果的には、先述の幕府拝借金返済問題が起こったのである。翌十一年には干上り反別一四四八町歩余に達したが、実際に作付けできたのは五六九町歩余で四〇%に過ぎなかった。また、沼廻り村々配分地の地形的要因から干上り地の多少が存在することは勿論であるが、干上り地が全て作付地とはならなかったのである(長命豊『飯沼新田開発』)。
 次に干拓事業の進展に伴い、解決しなければならないいくつかの問題があった。まず、飯沼干拓は沼の水を排水するために新たに「新堀」(排水路)を開削しなければならなかった。「新堀」は、幸田・神田山両村(現岩井市)地内を経由する開削計画であったため、両村には堀敷として相当の潰地を生む結果となった。飯沼干拓にとって「新堀」開削が必要不可欠な工事である以上、沼廻り村々では潰地問題をめぐって協議・交渉が行なわれたが、潰地の地代金額をめぐり幸田・神田山両村が難色を示したため、井沢弥惣兵衛と代官池田喜八郎手代の強い行政指導・介入が行なわれた。飯沼干拓事業の直接担当者である両者は、潰地問題については強硬姿勢で臨み、飯沼干拓自体、幕府直轄事業である以上、潰地は御用地として涙金で収用されても致し方なく、潰地代金問題で干拓事業に支障を及ぼしてはいけないとの警告を発した。この結果、潰地代金をめぐる沼廻り村々での協議・交渉が進展し、地代金は沼廻り二四か村割とすることで一応の解決をみ、支払いは「新堀」開削工事完了後にすることが約束された。しかし、地代金は五〇〇両余に達し、干拓事業途上の沼廻り村々にとっては、拠出するにはあまりも大きな額であった。このため、沼廻り村々は再度協議し、先に干拓事業からの脱退を表明した横曾根新田(後の横曾根古新田)分の新田地を取上地とし、この売却金を潰地地代金にあてることとし、取上地は尾崎村左平太が買請け、左平太個人が地代金を支払うこととした。この左平太買請け分の新田が後の五郎兵衛新田(現水海道市)である。五郎兵衛とは、彼の家が代々左平太と五郎兵衛を交互に襲名していたことに因なんでいる(長命豊『飯沼新田開発』)。
 しかし、この左平太買請け分の新田をめぐって一悶着が起こった。享保十一年八月、左平太買請け分の新田にかかる拝借金返納問題について、尾崎村を除く沼廻り二二か村は左平太から返納するべき筋合いであると主張し、同年十月代官池田喜八郎に出訴した。これに対し左平太も早速反論し、翌十一月、先に横曾根新田分の取上地買請けの際、沼廻り村々と取りかわした証文には、返納金は沼廻り村々から拠出する旨が定められているとして、代官池田喜八郎に返答した。この一件は出入訴訟に発展し、翌十二年閏正月二十六日双方とも江戸の池田喜八郎役所へ呼び出され、代官池田から左平太買請け地にかかる返納金は、沼廻り村々から返納すべきであるとの裁許が下り、さらにこの出入訴訟によって、拝借金返納や干拓事業の進行に大きな支障を及ぼしたとして、双方の当事者に対し日数一〇~二〇日間の手錠や過料銭等の重い処罰が課せられた(『飯湖新発記 下』)。このように干拓事業の進展中にも沼廻り村々の間では、様々な矛盾や対立が生起し争論にまで発展しているのである。とくに左平太買請け地にかかる拝借金返納問題は、金銭問題だけに未だ生産力が不安定な新田を抱える沼廻り村々にとって、これ以上の負担増加は干拓事業に対する農民の意欲や熱意を削ぐ恐れが多分にあり、まして当事者の一方が干拓事業推進の指導者的人物である「新田頭取」の一人であっただけに、争論は複雑且結果次第では、干拓事業の成行きを左右する恐れも多分にあったのである。このため幕府当局も当事者に対する処罰を戒告の意味合いを含んで厳しく行なったのである。一方、沼廻り村々にとってみれば、この争論は長年の願望であった「飯沼干拓」に対する沼廻り村々、および農民の取り組む姿勢を自問自答させる意味で、地域に投げかけられた大きな試練でもあったのである。
 享保十二年七月、代官池田喜八郎及び井沢弥惣兵衛の両名から沼廻り村々に対し、今年の稲刈りが済み次第、九月から飯沼の新田検地を実施するとの通告があった。さらに同年九月末、代官池田から廻状にて今年享保十二年で約束の「鍬下年季」明けになるので検地を実施する、そのため勘定奉行筧播磨守・小出加兵衛一行が十月十五日に江戸を出立する予定である、との通告が相ついだ(『飯湖新発記 上』)。「鍬下年季」とは、一定年月の無年貢期間をさし、生産力の劣る新田村落・農民を保護・育成する特典でもあったが、いいかえれば土地が自然状態に近いという極限状態に対する処置でもあったのである。九月二十一日、沼廻り村々は芦ケ谷村(現八千代町)に集まり、村々の実情をふまえて種々相談した結果、新田配分地に不均衡があり、このまま検地を実施されては是正できなくなる。さらに検地実施のための準備がまにあわない等の理由で、検地奉行一行の十月十五日江戸出立を同月二十五日に延期してもらいたい旨の出願を行なった(『飯湖新発記 上』)。これは当時、沼廻り村々の内、仁連(現三和町)、逆井(現猿島町)、東山田(現三和町)、弓田(現岩井市)、大生郷(現水海道市)、古間木の六か村が「新田取地村々ニ勝レ不宜荒砂場多ク」という状況のため、配分地への不満と幕府拝借金返納額に異論を唱えていたのである。このため馬場村源次郎と栗山村兵左衛門が出府し、代官池田喜八郎と井沢弥惣兵衛に委細報告し、検地奉行一行の江戸出立延期を訴えた。十月十五日、代官池田喜八郎の手代柳瀬外記右衛門が仁連町に着任し、沼廻り村々役人を召集し、検地の諸準備等について申し渡し、さらに検地奉行一行の江戸出立が十月二十日過ぎになることが告げられた。検地奉行一行の江戸出立延期は、一応実現したものの、検地直前の沼廻り村々では、先の六か村(仁連、逆井、東山田、弓田、大生郷、古間木)のように、新田配分地割合の方法、村役人への役料としての配分地、新田地の売り渡し、村境等の難題処理に苦慮し、出入争論も相ついでいたのである(『飯湖新発記 上』)。
 このような緊迫した在地状況の過中、十月十七日、勘定奉行筧播磨守一行総勢一五六名が仁連町と東山田村に到着したのである。一行は直ちに検地に着手しようとしたが、沼廻り村々では、未解決の出入争論をかかえていることや干上り地の冠水等の実情をふまえ、検地日延べ願いを筧播磨守に提出した。しかし、筧播磨守は「検地不指支村方申合、明日ゟ検地相初メ申候積り」と検地準備の出来ている村々から実施するという強い方針を示し、早速十月十九日に東山田村新田への検地竿入れが開始されるに至った(『飯湖新発記 上』)。検地役人一行は三組に分れ、検地を順次実施していったが、未だ検地を受けていない村々の多くは、十一月中になると干上り地の冠水や作柄不良等の窮状を訴え、検地日延べ願いを提出するに至り、検地役人も在地にいたことから村々の窮状を考慮し、とても検地を受けられるような状況ではないとの判断が下された。検地未実施の村々については、来春早々に検地を実施する旨の申し渡しがあり、十一月晦日をもって享保十二年の飯沼新田検地は終了し、検地役人達は残らず江戸への帰途についた(『飯湖新発記 上』)。翌享保十三年二月五日、総勢一九八人に及ぶ検地役人一行が再び飯沼に到来した。前年の検地日延べ願いによって、まだ検地を受けていなかった村々への検地が実施され、三月十六日までにすべての村々が終了するに至った。この両年にわたる新田検地の結果、飯沼には村数にして三一か村、総反別一五二五町歩余、石高一万四三八三石余と幕府によって把握され、それまで「空地」であった飯沼に広大な新田が誕生したのである。