常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第三章 用水と新田

第四節 飯沼干拓

幕政三大改革の一つである享保の改革は、飯沼干拓をめぐる難局に直面していた沼廻り村々に、強烈な衝撃を与えた。享保七年(一七二二年)七月、幕府はそれまでの農政を転換し、新田開発を奨励する高札を江戸日本橋に立てた。近世初頭以来、全国的に新田開発が盛行し、耕地も飛躍的に増大した反面、急速な開発は「乱開発」状況に陥り、国土は荒廃し、少々の降雨でも洪水となって田畑から人畜に至るまで多大な被害を与えた。また、有利な条件で新田への農民移住を奨励したため、本田(本村)の労働力が不足するという事態に陥った。このため、幕府は寛文六年(一六六六)、草木乱伐・川筋新田・新規焼畑等を禁止する「諸国山川掟」を発布し、「乱開発」の停止を命じ既存の田畑を出来るだけ丁寧に耕作し、一粒でも多くの米を収獲させるという、開発至上主義から本田畑中心主義へと、農政を転換しようとした。また元禄年間頃から顕著になってきた、町人の土地投資事業(町人請負新田)に対しても、当初は否定的であった。しかし、元禄年間を境に幕府も深刻な財政難に陥り、財政再建のためには抜本的改革、特に根幹である農政の転換が必要不可欠になった。この改革がいわゆる八代将軍吉宗が推進した享保の改革であった。吉宗は、幕府機構の改革・法令の整備・出自にとらわれない有能な人材の登用等を推進していった。特に幕府財政再建のために年貢増徴と新田開発の奨励、さらにこれらの実務を担当する「地方巧者」と呼ばれる、有能な実務派官僚の登用と不適格者の粛正を実行していった。飯沼干拓事業に重要な役割を担った井沢弥惣兵衛為永は、「地方巧者」の代表的人物である。彼らに与えられた使命は、幕府財政再建に向けて年貢増徴と、新田開発を大きな梃にすることであった。
 享保七年、前述の新田開発奨励の高札掲示と共に、幕府は、新田開発請負人の受け取る小作料を投資金額の一割五分までは正当と認め、年貢同様に幕府公権力によって小作料取り立てを保障するという強硬な方針を打ち出した。このような状況を背景にして、飯沼干拓=新田開発訴願が再開されるのである。先の享保七年の高札の主旨の中には、所領支配が入り組み、これまで放置されていたような場所にも開発計画を立てさせ、幕府公権力の権限によって開発を命じさせようとする点があった。しかし、新田開発願いを許可する条件として、所轄代官・個別領主・農民の一致が必要であった。また幕府は、開発請負願人や農民の既得権と町人資本を保護する方針をとった。これら幕府の新田開発政策の中で、最も注目すべき点は、いわゆる「地方巧者」と呼ばれる有能な実務派官僚が積極的に幕府拠出金(国家資本)を投入しようと尽力し、農民や開発願人たちも彼らに働きかけて幕府当局を動かそうとしたことである。
 このような状況下、丁度、在府中であった尾崎村名主左平太は、問題の江戸日本橋の高札を見て早速行動に移った。彼は江戸牛込肴町の家持庄右衛門を金元証人に依頼し、「飯沼廻り御料私領弐拾ケ村代」という資格で飯沼干拓を出願したのである。この資格は、勿論沼廻り村々から推挙されたものではなく、臨機応変に勝手に名乗ったものである。ただ二〇か村とは、いわゆる「新堀派」の村々をさし、この中枢にいた左平太の、時勢を観る眼の鋭さと迅速な行動は、事態の進展に新たな局面をひらくことになった。同年七月二十三日、願書は江戸町奉行に提出されたが、願書の内容は、(一)日飯沼干拓は沼廻り二三か村年来の願望であり、宝永三年の「新堀派」一八か村の干拓願いの際も代官が新堀開削方式による干拓に賛成している。(二)「新堀派」の干拓計画に反対する「古堀派」三か村の干拓計画は妥当性に欠き、自派の計画採用が妥当である。(三)干拓事業に必要な資金は、上方と江戸の町人資本を導入するというものであった。
 この願書に対し、江戸町奉行中山出雲守は、沼廻り二〇か村の惣代と名乗っているが、他一九か村との十分な協議を経ていないので、早速帰村して協議すべきとの沙汰を下し、一旦、願書は差し戻された。ついで八月二十二日、「新堀派」二〇か村の名主は出府し、二〇か村連名による「飯沼干拓」願いを江戸町奉行所へ再提訴し、同時に二〇か村の団結を強めるために証文を取りかわしている。この証文において、「飯沼干拓」実現に向けて、「新堀派」の結束を強める一方、「飯沼干拓」計画からの「古堀派」排除を明確にするに至った。宝永三年(一七〇六)以来の「古堀派」との分立・併願及び確執状況を経て、「新堀派」の結束が次第に強固になる一方、自派が計画した「飯沼干拓」という目的を早急に実現するには、沼廻り村々の総意が不可欠である。「古堀派」「新堀派」の干拓計画が並存していては、沼廻り村々の利害対立が顕著であるとして、訴願自体が不採択になる恐れが強く、その最大の障害である「古堀派」を排除する必要があったのである。しかしこの訴願に対し、年内には町奉行所からは何の吟味もなく、ただ所轄代官の指示を待てとの沙汰が下った。
 享保八年に入り、事態は好転する兆しが見え始めた。同年正月中より二〇か村名主たちは出府して江戸町奉行所へ出願した結果、二月三日町奉行中山出雲守より、代官松平九郎左衛門・御勘定岡田新蔵両名を実地検分に派遣する旨の沙汰がおりたのである。両名は同月二十三日に到着し、四月初めまで実施検分を行ない、四月四日新たに生子村(現猿島町)を加えた沼廻り二一か村の名主たちを召集し、飯沼干拓計画の上申と次の指示を待つべき旨を伝えて帰府した。しかし、この実地検分の最中、「新堀派」の干拓計画に対し、他の村々からの異論や利害対立が、相ついで起った。飯沼に隣接する古間木沼では、前述のように干拓計画が進展中であったが、古間木沼干拓は同沼の水を飯沼へ排水するという方式をとったため、「新堀派」側は飯沼への排水は飯沼干拓に支障が生じるとして反対した。また、飯沼干拓計画の中には、古間木沼を飯沼東縁村々の用水源とする構想があり、古間木沼干拓自体に反対した。この一件の詳細は明らかではないが、最終的には「新堀派」が譲歩し主張を取り下げている。この一件で注目すべき点は、この時点においては飯沼と古間木沼は隣接しながらも単独の干拓計画が立案されていたが、そこには総合的地域再開発の視点が欠落しており、互いに利害が競合する干拓計画であったということである。ついで猿島郡下出島村(現岩井市)外七か村からは、飯沼の排水を利根川へ落とす計画では利根川満水の節、八か村の耕地が冠水の恐れがあるとして異議を申し立ててきた。この問題は、神田山村(現岩井市)に新堤を構築して対処することで落着した。
 このような不穏な情勢下、代官松平・御勘定岡田の帰府直後、四月六日「新堀派」二一か村は、より強固な結束を保つために連判証文を作成した。証文の内容は、先の宝永三年、享保七年出願の際における結束の乱れを反省し、二一か村の一致団結と負担平等を義務づけたものであった。証文作成後の五月から尾崎村左平太・栗山村仁右衛門、馬場村源次郎、弓田村(現岩井市)喜右衛門、崎房村三太夫は江戸に詰めて幕府当局や資金調達の交渉にあたることになった。彼らの尽力の結果、金元(出資者)は大坂の豪商鴻池善左衛門、金元江戸証人として大和屋庄右衛門と升屋武右衛門の両名が一応決定した。しかし詳細は不明であるが、大坂の鴻池との間で行き違いがあり、最終的には出資を断わられた。この一件は結局破談になったものの、豪商鴻池が遠く関東の新田開発に関与していたことは興味深い。
 享保八年八月一日、沼廻り村々代表として江戸に詰めていた一同は、代官松平九郎左衛門役所に呼び出され、御勘定井沢弥惣兵衛為永による飯沼検分実施を通告された。井沢は将軍吉宗の紀州藩主時代からの家臣で、吉宗の将軍継嗣と共に幕臣に登用された土木技術の第一人者で、いわゆる「地方巧者」の代表的人物であった。彼の土木技術は「紀州流」と呼ばれ、関東郡代伊奈氏歴代の「関東流」にかわるものとして注目をあびるようになる。井沢は、早速八月十一日猫実村(現岩井市)に到着した。彼はすでに前回の代官松平・御勘定岡田等の検分の際に作成された調書をもとに綿密な飯沼干拓計画を立案して現地に臨んで来たのである。彼の立案した飯沼干拓計画は、長い間飯沼の排水をめぐって「新堀派」と「古堀派」とに分立抗争していた沼廻り村々の想像をこえる大規模、且総合的地域再開発構想であり、飯沼にとどまらない「鬼怒川中流域総合開発計画」ともいうべき一大プロジェクトの一環として、飯沼干拓に着手しようというものであった。事実井沢は飯沼干拓に続いて、鬼怒川東岸において大宝平沼・江村沼・砂沼の干拓と、これらの代用水である江連用水開削という一連の「総合開発」を指揮したのである。
 井沢は、まず飯沼の水を利根川へ排水すると共に、今まで飯沼を用水源としていた沼廻り村々の代用水を下野国河内郡吉田村(栃木県南河内町)地先の鬼怒川から取水することとし、長大な吉田用水の開削を計画し実地検分を実施した。吉田用水開削は、鬼怒川西岸に散在する群小湖沼や原野(山川沼、北沼、菅ノ谷溜井、太田沼、八町沼、和歌沼、古間木沼、国生沼、別府沼、大形原)等を通過させることによって、これらの沼や原野を一挙に干拓・開発して三五〇〇町歩余の新田を造成するという壮大な計画であった。同年九月十二日、長い間分立抗争していた「新堀派」と「古堀派」に生子村を加えた沼廻り二四か村は、代官松平九郎左衛門役宅に呼び出され、飯沼干拓願いは「新堀派」の出願を受理・採用することになったが、干拓は「古堀派」を含めた沼廻り二四か村が一致協力して当たるように申し渡された。ついで六月十八日、幕府勘定奉行駒木根肥後守から飯沼干拓に対する幕府当局の最終回答が申し渡された。内容は、(一)新田出来地は二四か村平均割半分・高割半分とする。(二)新田は沼廻り二四か村の村請形式で開発するが、沼廻り村々の団結を乱してきた張本人である「古堀派」願人三名は排除する。(三)但し、開発には「古堀派」三か村自体の加入を認める。(四)新田出来地の地割実施に必要な村々の質地の実態を至急報告する。(五)今後、飯沼干拓事業は、井沢弥惣兵衛の専任とするというものであった。
 この幕府当局の最終回答を受けて、飯沼干拓に着手する前に、沼廻り村々と井沢が解決・処理しなければならない二つの大きな問題があった。一つは、沼廻り村々の複雑に入り組んだ領主支配の問題である。二つは、干拓工事に必要な資金調達の問題である。享保七年段階、沼廻り二四か村は一四もの支配形態にわかれ、一つの村が複数の領主によって支配される相給村落が多かった。享保九年八月、沼廻り二四か村の内、私領七か村は井沢に対し、七か村の幕領替願いを提出した。願いの理由は、(一)私領村々では、個々の領主との交渉や許認可に時間がかかる上、様々な「地頭御用」があって干拓事業に専念できないでおり、早急に着工するには個別領主の存在自体が障害である。(二)干拓成就の際には、当然新田が幕領となり、一村内に幕領と私領とが新たに形成され、村落運営上、支障が生じやすいというものであった。
 この幕領替願書の背景には、勿論干拓事業の専任者である井沢の画策と助言があったと考えられる。彼にとっても干拓を円滑に行なうには、幕領替すなわち一円的支配の方が好都合であったのである。一方、沼廻り村々にとっても、干拓事業を推進する上で個別領主の存在が桎梏になっていたのである。なお幕領替願いと併行して、沼廻り村々では干拓事業を効率的に推進するために組織作りを行なっている。沼廻り二四か村を六か村ずつ四組に分け、各組を一人の頭取に指揮させ、諸事を組ごとに分担させるというもので、四人の頭取は干拓事業における沼廻り二四か村の惣代的権限を付与されて活動することとなった。享保十年一月、先に提出した私領七か村の幕領替願いの主旨が認められ、沼廻り私領一五か村(崎房、芦ケ谷、平塚、恩名、仁連、東山田、逆井、山、沓掛、生子、大生郷、古間木、鴻野山、馬場、栗山)の一括幕領替が決定し、沼廻り村々の一円的幕領化が実現したのである。
 この結果、干拓事業を統一的に推進する組織・体制が整備され、幕府→井沢弥惣兵衛→四頭取=四組村々名主→村方という機構が成立したのである。この機構によって、飯沼干拓事業に関する井沢の指示が単一的に沼廻り村々まで貫徹し、逆に村々の意志も干拓事業に反映しやすくなったのである。なお、この際選出された四頭取とは、尾崎村左平太・大生郷村伊左衛門・馬場村源次郎・崎房村三太夫の四名であるが、四家とも個々の村名主を勤める一方、先祖代々にわたって飯沼干拓計画に奔走してきた家柄でもあり、沼廻り村々の信望を集め、以後も干拓事業に精力的に取りくむこととなった。
 次に資金調達の面では、前述のように大坂の豪商鴻池からの融資を受ける手筈であったが、享保九年六月になっても一銭の融資もなく、破談状況になってしまった。江戸での金策もうまくいかず、結局井沢の尽力によって、江戸中橋通り四丁目大和屋清左衛門から、当座の資金として二〇〇両を工面することができた。このように資金調達の前途があやぶまれるようになったが、同年八月井沢の指導・助言により、彼あてに鍬下年季(無年貢期間)二年分の作米をもって返済するという条件で、幕府拝借金を出願した。この願いは、早速受理され同月中に拝借金一万両貸与が認められた。一万両という大金の貸与問題は、幕府財政再建の折でもあり、容易なことではなく、幕府当局である勘定奉行所では決定を下せず、恐らく幕閣中枢及び将軍吉宗の裁断を受けたものと思われる。このことは井沢の飯沼干拓に対するなみなみならぬ熱意と力量が、幕閣中枢及び将軍吉宗を動かして拝借金一万両貸与を実現させたとも言えるのである。このように飯沼干拓事業における井沢の果した役割は大きく、干拓計画の立案・幕領替・資金調達等の面で「地方巧者」としての見識と実行力を十二分に発揮している。勿論この背景には享保改革という幕政の大転換と、改革政治を直接担当する立場にあった井沢の「実務派官僚」としての自覚と使命感がこれらを支えていたのである。しかし、それ以上に無視できないことは、沼廻り村々の在地状況である。長い間、眼前に広がる広漠たる飯沼を何とか干拓し、少しでも耕地をふやして生活基盤を安定・強化したいという先祖代々にわたる沼廻り村々農民の生活に根ざした欲求がうずまいていたのである。この欲求の高まりが村役人・四頭取・井沢を動かし、強いては幕府を動かしたのである。