常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第三章 用水と新田

第三節 開発と入会争論

最後に、鬼怒川西方、飯沼に隣接する古間木村地先にあった古間木沼の場合は、隣接する飯沼の干拓計画・推移と密接に結びつきながら干拓が進められていった。古間木沼は、古間木村沼とも呼ばれ、古間木・蔵持・大輪(現水海道市)・花島(同上)・羽生(同上)の五か村の用水源でもあった。延宝八年(一六八〇)大輪村の弥次兵衛が同沼を干拓して新田開発を企て、沼廻り五か村の代用水堀と、沼水の落堀(排水路)掘削工事が着手された。
 代用水堀は、岡田郡鎌庭村(現千代川村)地先の鬼怒川に圦樋を設けて取水することになったが、翌天和元年(一六八一)秋に鬼怒川が満水になった時、圦樋を押し切り、鎌庭村から向石下村に至る地域に水害を及ぼしたため、この代用水堀は一旦廃棄され、新田開発自体も延期された(増田務家文書)。その後沼の新田開発計画は、大輪村の金左衛門に継承され、元禄十六年(一七〇三)所轄代官滝野十右衛門に出願したが、代用水堀流域村々の了解が得られず、宝永三年(一七〇六)には、代用水堀の取水口を下流の国生村地先に変更して出願したが、堀筋の向石下・国生両村が掘削による潰地と、代用水堀への新規道橋普請、さらに天水の代用水堀への流入に伴う谷ツ田耕地の渇水等の問題で反対したため、再度延期となった(増田務家文書)。
 享保年間(一七一六~三五)に入り、成長著しい町人層の土地投資の波が古間木沼にも押し寄せて来た。享保四年夏、江戸本所御台所町の藤懸屋武左衛門が古間木沼新田開発請負を願い出、翌五年三月には、大輪村金左衛門、江戸新材木町久右衛門・同本所御台所町藤懸屋武左衛門・金五郎を願人とする新田開発請負願いが出願され、関係諸村に対し開発への故障の有無が諮問された。これに対し向石下・国生両村は、古間木沼自体の開発にではなく、沼干拓に伴う代用水堀掘削に反対を申し出ている。反対理由は、宝永三年(一七〇六)の出願の時と同じく、代用水堀が向石下・国生両村地内を縦断し、特に両村の用水源である国生沼への天水が代用水堀に吸収されてしまう。また、代用水堀掘削に伴う両村地内の潰地と、新規道橋敷設経費や鬼怒川満水時の水害への危惧等であった(増田務家文書)。
 この結果、代用水堀は、両村地内を掘削しない旨の証文が取りかわされている。しかし、その後の古間木沼干拓及び代用水堀掘削の推移は、残念ながら史料的に明らかではなく、古間木沼の開発問題が再発してくるのは、享保七年(一七二二)以降の飯沼新田開発との関連からである。しかし、そこには元禄~宝永年間以来、古間木沼開発に積極的に取りくんできた大輪村の金左衛門や江戸町人資本の姿を見ることはできない。あくまでも飯沼新田開発の一環として進められた、周辺群小湖沼の干拓の一つとして開発が進められたのである。飯沼新田開発は、享保改革における幕府の新田開発奨励に対する沼廻り村々、および農民の積極的対応の所産に他ならないが、この地域的気運の盛りあがりと地元主導の流れの中で、古間木沼開発への江戸町人資本参画の企ては排除されていった。古間木沼開発自体、飯沼新田開発という大事業計画に統合・編入され、より広域的な飯沼廻り開発の一環として干拓が進められていったのである。享保十年には、遠藤新吾なる浪人者の請負によって古間木沼の悪水落堀が竣工し、面積凡そ八〇町歩余の沼も徐々に干上り、古間木村組頭善左衛門請・大沢新田村中請・岡田新田村中請・蔵持村中請の分地、ついで同十二年から翌十三年にかけて新田検地が実施され、手のつけられない沼の最深部を除いた干拓地に、古間木沼新田・蔵持村新田・大沢新田・岡田新田が成立し、同時に延宝年間以来の古間木沼開発、および代用水堀掘削と密接に関連していた国生沼にも、国生村新田・杉山村新田・向石下村新田が成立した(『飯湖新発記 下』)。
 このように飯沼新田開発という地域の大事業進行の過程で、かつては村落間の激しい争論の舞台になった、飯沼廻りの中小の沼地や原野には、数多くの新田が成立していったのである。それは、まさしく今まで目先の権益保持に終始していた飯沼廻りの村々、および農民が飯沼新田開発という一大プロジェクトに刺激され、これに参画することで争論対立を止揚し、新田開発という積極的手段で権益をより拡大再生産しようとしたのである。