常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第二章 領主と村のしくみ

第三節 元禄地方直し

「地方直し」とは、蔵米知行を地方知行に変更する政策である。すでに述べたように、幕府の旗本の知行形態には土地を与えられた地方取りと、幕府から米を支給される蔵米取りとがある。この蔵米取りを地方取りに改めるのが地方直しである。その方法は、たとえば蔵米三〇〇俵を地方にかえると、知行高三〇〇石の土地を与えるということである。
 幕府はたびたび地方直しを実施したが、江戸初期の寛永十年(一六三三)の「寛永地方直し」と、中期の元禄十年(一六九七)の「元禄地方直し」はその規模も大きなものであり、旗本家臣団にさまざまな影響を与えたことはいうまでもない。
 寛永地方直しより六四年後、五代将軍綱吉の時代になるが、元禄十年七月二十六日、幕府は蔵米五〇〇俵以上与えられている旗本の知行をすべて地方知行にかえるとした。次いで八月十日には、地方直しによる年貢の収納は翌年から行なうこととして、十月二日には、地方知行と蔵米と両方で給与されている者は、蔵米の多少にかかわらず、原額五〇〇石以上の者すべてを地方知行に改めるとした。これが元禄地方直しの趣旨である。
 元禄地方直しはこうして元禄十年から実施され、五四二名の旗本が対象となった(大舘右喜「元禄期幕臣団の研究」『国学院雑誌』六六-五)。対象人数は、他に五四七名あるいは五二三名ともいわれている。
 この地方直しは翌十一年以降も徐々にではあるが続けられ、ほぼ完了したのは正徳二年(一七一二)であった。実施期間は一四年間にもおよぶが、その中で特に宝永年間(一七〇四~一七一〇)は実施が多くみられ、それを宝永の地方直しともよんでいる。
 元禄十一年三月、地方直しを担当した地方役人に対する布告ともいうべき、「知行割示合覚」が示された(『日本財政経済史料』)。
 この細則は二九条から成るものであり、それによると、
 
  (一)知行地と蔵米を与えられている者が、新しく知行地をもらう場合は前々からの地行地の近くに与える。
  (二)蔵米知行の者で小身者は江戸の近く、大身は遠くに宛行なう。
  (三)一か村を五~六人以上に分割しないこと。
  (四)一〇〇石程度の知行地は一~二か村で割渡し、三か村以上に及ばないようにする。
  (五)二〇〇〇石以上の村は小割をしない。
  (六)村を分割した場合、残高が二〇石以上小さくならないようにする。
  (七)一〇〇〇石以上の者には少しの林を付ける。
 
などが定められた。さらに、この知行宛行の地域は寛永十二年(一六七二)に決定した、江戸より一〇里(四〇キロメートル)以遠とすることが、より強化された(『神奈川県史』通史編2 近世(1))。
 こうして地方直しは江戸より一〇里以遠の地が対象となり、しかもその範囲内では一定の地域に知行地が集中するようにしているが、知行地にされた村は五~六人以内の分割が原則とされたといえる。
 知行地の配分をみると、武蔵・常陸・下総の順となる。そのうち江戸近郊の武蔵が最も多く、埼玉郡や葛飾郡は、知行地が集中した所である。この地方直しの特色としては、江戸より遠距離の関東外延地域にあたる、上野とか下野とか、あるいは安房、伊豆などに知行地が拡大されたことにある。これは江戸近郊地域の分給化をおさえるためと、元禄期幕政の一環として実施されたためである。