常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第二章 領主と村のしくみ

第二節 支配のしくみと年貢

元禄元年八月、古間木村と大生郷村との間に出入がおこった。事のおこりは、古間木村の地先にある開墾地の帰属をめぐる争いと、飯沼での藻、水草の採草の問題である。ここで、古間木村が奉行所へ訴え出た訴状をみると、元禄元年七月晦日に大生郷村の百姓三~四〇〇人ほどが地先の争論の地へ来て、新畑二町余の所に植え付けてあった粟、陸稲、菜、大根、ネギなどを捨てて踏み散らし乱暴を働いたという。さらに、大生郷村は古間木村に対して、飯沼での藻の採集を禁じ、その上古間木村の地先の「柴間」へは大生郷村の地内の理由で立入りを拒んだ。
 この出入りは十二月に前々の通りという裁許をうけ、古間木村の主張が認められたが、翌元禄二年二月、また争論の場所へ大生郷村の名主をはじめ四~五〇〇人の者が古間木村の本田畑、新畑の風よけに植えておいた松や杉の木「九千本余」を残らず伐り倒し、その根まで掘り出してしまった。古間木村の抗議に対して大生郷村側は、「御公儀様より大生郷村の地に仰せ付けられているのだから、いかように木を切り根を掘っても古間木村より構なし」といっている。
 この両村の地境については、寛永七年(一六三〇)の伊奈忠治による検地の際に決定されていた。それは「後藤舟戸道」を境に東方を大生郷村分、西方を古間木村分とするものであった。もともと大生郷村は「往還道を限り飯沼の方残らず鴻野山村境まで」は大生郷村の地内といっており、古間木村は「中丸谷ツ」に田畑があるので、その場所から西方を主張していた。
 古間木村は舟戸道より東方の「中丸谷ツ」に田八反歩がある。これは大生郷村の高に入れられた越石である。さらに舟戸道より西に一町一反八畝歩の田畑がある。伊奈検地で両村分けをしたはずの争論の場所に古間木村分の新畑八反歩もある。三一年前(万治元年のことか)の争論の時にこの新畑について大生郷村は越石の百姓が開いたのだから、大生郷の高に入ると主張し、古間木村は古間木村の百姓が開いたものは古間木村のものであるといった。しかし、当時古間木村の名主が両村の領主である旗本土井兵庫頭の御意に背くことがあったため、籠舎を申付けられるという処罰を受けていたため、八反歩余の新畑のうち二反歩をしかたなく大生郷に高入れし、その後は入会地のようになっているが、本来は古間木村のものであるという。
 古間木村は、新畑八反歩ある争論の場所は古間木村のものといい、大生郷村の言うように中通り道を境に飯沼方残らず鴻野山村境迄が大生郷村の土地とすれば、先の一町一反八畝の田畑も越石になってしまうといい、もともと後藤舟戸道を境とする根拠は何も無いのだとまで主張している。結局、この騒動は元禄二年八月になっても決着をみなかった(稲葉則雄家文書)。