常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第二章 領主と村のしくみ

第二節 支配のしくみと年貢

近世社会は幕藩領主の支配が非常に強固であることに特色がある。それは領主階級が土地と百姓を一体として支配することを体制的に実現していたということである。支配される民衆自身が支配の正当性を、暗黙のうちに承認せざるを得なかったほど、領主権は強かったといえよう。
 こまごました日常生活の中にも領主権力は浸透していた。そのため村の秩序は領主的秩序と生活共同体としての村固有の秩序が一体として共存していたのであって、一七世紀半ば以降に村請制村落が確立してくるのと同時に近世的村秩序も確立してきたといえる。
 村のきまりは従来からの慣行として成文化されないものが主であるが、百姓は中世の惣掟のような村掟を作っている。村のきまりの内容は多種多様にわたるが、その中心になるものは生産を維持するためのきまりである。共同体の慣行としての水の利用、入会地林野の利用に関して、あるいは村落生活上での冠婚葬祭などの村のつきあいに関する秩序は厳しく維持された。たとえば、葬礼や婚礼の際の装束や席順など村落内身分に関する規則などは村社会が変質していく一八世紀後半になると破られていくことになるが、村の秩序をひどく犯せば村ハチブにされ、村落生活から排除されたのである。
 ここで、石下地域での村請制村落の確立してくる時期の、村内秩序の維持に関するきまりを二例あげてみよう。二例とも向石下村のものである。第一例は慶安二年(一六四九)二月六日の「連判之事」と題する村議定である(向石下 増田務家文書)。この議定は増田大学をはじめとした三七名の向石下村の百姓の連名があり、内容は五か条のものである。その内容をみると、
 
  (一)作物は日暮れより以後は、自分の作物であっても一切取ってはいけない。また菜や大根なども日暮れ
    に持ってきてはいけない。
  (二)畑に植えてある茶の実は取ってはいけない。取ってもよい時期には日限を定めて取ること。自分の茶
    の実であっても日限を定めないうちに取った場合は過銭(罰金)として金一分を払わせる。もし払わな
    い場合は村から追放する。
  (三)村のお堂やお宮や屋敷に植えてある杉の枝、或は雑木の枝などは切り取ってはいけない。
  (四)籠へ少しの杉枝でも入れているのを道にて見かけた場合には、過料として金一分を払わせる。もし払
    わない場合は村から追放する。
  (五)堤にては少しの草でも刈り取ることはいけない。馬もつないではいけない。
 
 以上のような内容であるが、この議定が成立してくる背景には、畑作物、茶の実、杉枝切り取り、堤保護の規定からみて、その中心にあるのは、冬の間の燃料としての杉枝をめぐる盗伐の問題があったものと考えられる。そのためと思われるが、第三条めの「村のお堂お宮并屋敷」に対応するように、議定の末尾に「大明神山、甚空寺山、くほ山、十二天宮、熊野山、大日山、宝光寺山、舟越地蔵山、山王塚、八幡山、助右衛門杉なみうさきうろ、善五郎杉なみ同所、甚五郎同三ケ所、甚兵衛同断東塚、大かく同断同所」の記載がある。
 村にとっては杉枝の採取、茶の実の採取、さらに堤での草刈りが特に問題とされていたといえ、議定の違反者へは過料がかされ、それに不満をもつ者は「所払い」、つまり村からの追放をきめるほど強い態度でのぞんでいる。
 さらにもう一つの例をあげてみよう。これは明暦元年(一六五五)十一月の「相定申手形之事」と題する議定である(増田務家文書)。この内容は、
 
  (一)法度を破り秩序を乱すものは所払いとする。たとえ寺院を仲裁にたてて許しをこいても帰村は認めな
    い。
  (二)村内で盗難にあうことがあったので、今度惣百姓で相談の上、罰をきめた。
  (三)何人たりともたとえ下女下人であっても盗みをした者は村から追放する。作物についても、少しでも
    盗みや畑荒しなどの「いたつら」をした者は決して容赦しない。
 
 以上のように盗みについてのきまりがあらためて三四名の百姓の連印で決められたのである。この議定の中心にあるのは村内での盗難防止策である。これも前述した慶安の議定と同じように、違反者に対しては「所払い」という厳罰でのぞんでいる。