常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第二章 領主と村のしくみ

第二節 支配のしくみと年貢

本石下村は寛永十年(一六三三)以降承応元年(一六五二)まで古河藩領に組み込まれた。古河藩では反取法を原則としたが、その土井古河藩支配下ではどんな年貢納入が命じられたのだろうか。寛永十九年五月十九日付の「本石毛村巳ノ御物成納日払方之目録」(吉原文雄家文書)は、その年貢上納の様子をよく伝えている。
 Ⅱ-7表はその年貢支払い日ごとにまとめたものである。村高は二〇一七石五斗七升、この取は田畑合せて六九一石八升で、三ツ四ブ二厘六毛(約三四%)の年貢率であった。支払いは三斗七升入りの俵で口米を含め一〇八六俵九升三合、畑方は口銭を含めて永一三二貫三六五文が命じられたのである。畑永は実際には大豆は現物で、小豆、紅花、小麦、大麦、荏、胡麻、木綿などは地払いの上、金納にかえて一五三両三分鐚六六二文が支払われている。
 
Ⅱ-7表 寛永18年(1641)年貢の納め方
 寛永18. 9.191俵2斗2升  神谷監物・二宮長右衛門手形にて岡本庄左衛門扶持方へ渡る
1俵2斗2升  同手形にて中村茂左衛門扶持方に渡る
1俵2斗2升  同手形にて遠藤左内扶持方へ渡る
3斗3升  同手形にてぞうり取清九郎扶持方へ渡る
14俵1斗2升  同手形にて古河足軽衆扶持方へ渡る
 寛永18.10. 710俵ずつ(計70俵)竹田次郎兵衛,近藤源右衛門,酒井八右衛門,木田惣大夫,石川甚右衛門,小杉弥右衛門,岡田六左衛門へ渡る
8俵2斗5升  奥野采女へ渡る
 寛永18.10.晦2升5合 10月遠江守古河へお成,馬のふり米に足軽清左衛門,次右衛門へ渡る
 寛永18.11.2204俵1斗2升  江戸へ届け,大野仁兵衛,小杉長兵衛,早川弥五左衛門.関三十郎へ渡る
 寛永18.11.19440俵    内藤亮へ渡る
    11.26
 寛永18.12.184俵    内藤亮へ渡る
 寛永18.12.1865俵6升5合 寺田様へ渡る
 寛永18.12.242俵    酒依弥左衛門へ渡る
(1俵ずつ計2俵)河村又五郎,伊藤半左衛門へ渡る
 寛永19. 3. 236俵2斗1升5合 神谷監物,二宮長右衛門手形にて古河足軽衆3月扶持方へ渡る
28俵1斗4升  御長柄6人分巳の切米5俵ずつ渡る
3斗5升6合 小倉清左衛門へ渡る
 寛永19. 3.26196俵2升9合 江戸へ届け,大野仁兵衛,関三十郎へ渡る
 寛永18.10.晦大豆1斗5合 10月遠江守古河へお成りの際の馬飼料,足軽清左衛門,次右衛門へ渡る
 寛永18.12.26大豆107俵1升7合江戸へ届け,酒巻兵左衛門,林六左衛門へ渡る
紅花永1貫576文在郷にて売上,代金4両2分鐚912文
麦 永10貫680文在郷にて売上,代金26両2分鐚800文
大豆永8貫600文110俵2斗(納方は上記のよう)
小麦永1貫649文在郷にて売上,代金4両2分鐚553文
小豆永1貫649文在郷にて売上,代金4両2分鐚553文
荏 永1貫649文在郷にて売上,代金4両3分鐚790文
胡麻永1貫649文在郷にて売上,代金4両3分鐚790文
木綿永1貫600文木綿40反,103両1分鐚252文
(計)153両3分鐚662文
寛永19年「本石毛村巳ノ御物成納日払方之目録」(本石下 吉原文雄家文書)

 
 本石下村が上納した年貢米の納め先は大別して三つの形に分けられる。第一は神谷・二宮の手形にて支払われるもので、岡本、中村、遠藤、ぞうり取り、古河足軽衆に宛たもの。第二は江戸へ回送した年貢米であり、これは船賃も別に支払って納めたものである。宛先は大野、小杉、早川、関、酒巻、林の給人たちである。さらに、第三は竹田、遠藤、酒井をはじめとする合計一四人の給人の給米と御長柄六人分の給米のグループである。年貢米は古河へ、あるいは江戸へ回送され、直接給人の手元へ配分されている。このことから本石下村は給人地方知行制のような形態をとっているが、実際には藩直轄領といえる。藩が一括して年貢支配を行なっているのであって、各給人が指定された村からの年貢米を、手形と交換で受け取る俸禄制である。
 大名の家臣団を構成した武士(給人)たちには知行地を与えられ地方支配を行なう場合と、藩から一定の俸禄米を支給される蔵米取りの場合があったが、前者の給人地方知行制は、藩制確立過程で知行地の支配権が藩主の領主権へ統制、吸収されていき、単に知行高に応じて年貢米を受け取るようになり、さらには給人地方知行制が廃止されて蔵米をうけ取る俸禄制(蔵米知行制)へと切りかえられるようになっていった。下野などの北関東の諸藩などでは寛文・延宝期に給人地方知行制の廃止が一応完了しているが、このことは初期藩政が確立したことをあらわしていた。
 本石下村の古河藩への納入の方法をみると寛永十八年(一六四一)九月から翌十九年三月までの間で数度にわたって支払われている。その中には、寛永十八年十月に藩主が古河へ到着した際の馬飼料として米二升五合、大豆一斗五合が納められたりしている。本来蔵米知行の場合は、年貢米がいったん藩の蔵へすべて集められてから、その上で知行高に応じて俸禄として給与されるのであるが、この時期の給人への蔵米支給をみると、村々から順に古河藩や江戸屋敷へ運ばせて、そのまま直接給人に支給してしまっている。まだ、藩の蔵に大量の年貢米を集中させ、管理する体制ができてはいないのだろう。
 また、畑方の永納をみると、表向きは永一貫に二石五斗替えで、畑永一三二貫三六五文が賦課されているが、その支払いは小豆、大麦、小麦、荏、胡麻、紅花などの売上代金による金納である。紅花などは、初期に常総地方で広く栽培されていたようであるが、この年に本石下村では永一貫五七六文紅花の代が、永一貫に五貫目替えで、二割の出目を含めて二貫四五六匁が在郷にて売上げて、代金四両二分鐚九一二文の納入が命じられている。