常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第二章 領主と村のしくみ

第一節 寛永検地と村

これに対して、大学は承応三年(一六五四)二月奉行に対して次のようなことを述べている。
 
  (一)甚兵衛、勘三郎、小十郎の三人は我等「譜代」の者である。前々から甚兵衛、小十郎にはそれぞれ畑
    を「おん(恩)」に出している。勘三郎は甚兵衛の弟であり、屋敷の内に住んでいるので畑はまだ与え
    ていない。
  (二)祖父大学の死去に際しては、甚兵衛の親甚兵衛に「おた(恩田)」を持たせ、小十郎の親太郎右衛門に
    は馬を与えている。さらに親大学が死去した際には、甚兵衛に恩田を持たせている。
  (三)祖父大学が三年前に死去した折には小十郎に恩田を持たせたが、勘三郎にも同じように恩田を持たせ
    ようとしたところ、恩にはならないと拒否した。勘三郎や甚兵衛は、恩を申請けるから「か様之役儀」
    を申付けられるのだから、早々に恩田を返すというので、恩田を取り上げた。
 
 この大学の主張は、第一条めにはっきりと甚兵衛、勘三郎、小十郎は「譜代下人」であるとし、前々から甚兵衛には下畑三畝二〇歩、小十郎には中畑三畝三歩を恩に出しているという。
 祖父大学の死去のころから勘三郎と甚兵衛は「恩を申し請けるからか様の役儀を申付けられ」るのだといっているが、「か様の役儀」とは具体的には不明だが、おそらく譜代下人の主家筋への奉公をさしているものと思われる。
 大学は承応二年十一月に皆葉村でこの一件の詮議があり、御代官へこのような内容を申し上げたところ、三人の者たちと村中の年寄、惣百姓が召出され、二度にわたって尋問があった。結局、大学と甚兵衛ほか二人の対決は、承応三年七月二十三日、甚兵衛、久右衛門、小十郎の三人が大学の譜代に間違いないことで決着がついた。
 大学譜代の三人は「大学屋敷譜代にまぎれ御座無く候処に、私共むざと仕り候義申上げ候に付」ということを言わされて、「籠舎」を命じられた。しかし、宝林寺沼部又右衛門の助力によって籠舎が許され、前々のように大学に対して、「おん畠」をも作り、重ねて大学方へ奉公するように、代官より申し付けられたのである。
 以上のようなことからも比較的隷属性の弱い甚兵衛たちでさえ、一人前の小百姓への身分解放、自立への道は困難なものであったろうが、甚兵衛たちが恩田や恩畑を拒否し、年貢を負担していることや、村の鎮守の前で主家筋の大学と同座し、「官途」仕ったから譜代下人ではない、惣百姓並なのだという論理に、一人前の百姓をめざし、主家とのきずなを立ち切ろうとする、下人たちの確かな足どりをみることができるだろう。