常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第二章 領主と村のしくみ

第一節 寛永検地と村

承応二年(一六五四)二月、向石下村の甚兵衛、太郎右衛門、久右衛門らは、同村「大学」を代官所へ訴え出た。大学は名主を務める向石下村の土豪的有力農民であり、村内最大の土地所有者であった。彼らの主張は、
 
  (一)大学が三人を「譜代」の者であると御代官へ虚偽の証言をしたこと。去年の十一月に「久太郎」とい
    う者を無体に「ふミころはし」「しはりほたし」を打ったこと。
  (二)名主大学と彦八、勘左衛門は親類であり、村内の惣百姓、年寄も大学と同類であること。
  (三)甚兵衛が七年間耕作し、四年前に大学へ返した二畝歩、作徳鐚一〇〇文の畑は、大学は「おん(恩)」
    にくれたと偽っていること。
  (四)太郎右衛門も甚兵衛と同様に地代を払って大学の畑を耕作していたが、これも恩畑にくれたと偽りを
    いい、甚兵衛や太郎右衛門の耕作する畑を恩にくれたというなら、なぜ久右衛門の畑も恩畑にくれな
    いのか。すべてが偽りである。
  (五)譜代筋の者たちは皆々、主人や名主などの所で「官途」を仕るのである。しかし、その他の者、身分
    的に自由な小百姓たちは、村の鎮守の前で「官途」を仕るのである。我等は「惣百姓なミ」に大学と
    同座にて、鎮守の明神の前で「官途」仕った。だから我等は惣百姓と同格であって、大学の譜代では
    ない。
  (六)先年より年貢も五人組帳等も、いずれも「惣百姓なミ」に扱われている。年貢を負担しているのであ
    る。
 
 以上の六か条にわたることは、正月十一日に親類の者が代官所手代へ申し上げていたことであるが、何の返事も無いために、訴詔に及んだというものである。
 この代官所への訴状の中には「ふミころはし」「しはりほたし」を打つなど、小百姓に対する大学の暴力的行為を訴えつつも、譜代下人が「惣百姓なミ」を要求していることがわかる。大学所持の耕地をめぐる「恩」畑の扱いでも、大学より恩田、恩畑として耕地を与えられれば、譜代下人としての身分や立場を容認することになり、恩畑ではいつ取り上げられるかわからず、耕作権が保証されないためか、大学が恩に与えたことは偽りだと主張している。
 さらには、第五条めに「官途」仕えるということが出てくるが、「官途」とは一般的には官吏の職務または地位をさしたり、仕官の途をいう言葉である。ここではどんな意味で使われているのか詳しくはわからないが、おそらく大人として名前を名乗り、一人前の百姓として認められる行為をさすものと思われる。小百姓たちが村の鎮守の前で官途を名乗り、それとは別に譜代下人たちは主人や名主の所で名乗る。その立場の違いが、甚兵衛たちに我々は大学と同座で鎮守の前で名乗ったから、惣百姓と同格で大学の譜代ではないという論理を生んでいる。村の百姓にとって鎮守の場はこうした身分上の問題でも重要であった。さらに宗門帳に記載され、年貢を負担しはじめていることを主張しているが、これも下人ではなく一人前の公儀の百姓であることの強い主張である。
 

Ⅱ-4図 甚兵衛たちの訴状(増田 務氏蔵)