常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第二章 領主と村のしくみ

第一節 寛永検地と村

初期の村々において指導的立場にあった土豪的有力農民たちは、村ごとのワクを越えて自分たちのみの独自の世界を形成していた。
 それは社会的結合としての姻戚関係にも現われてくる。たとえば、元禄十四年(一七〇一)二月に没した本石下村の新井家の「永寿院心岳妙玄大姉」という女性は、向石下村の増田大学の妻であった。また古間木村の渡辺善左衛門家とも新井家は姻戚関係を持っていた。このように有力農民どうしは村をこえて姻戚関係を持ち、その結合を維持してきたのである。
 また、強い結びつきを示す一例としては、承応元年(一六五二)に向石下村の増田大学の弟二郎左衛門が、兄の所持する田地の「末代わけ」を願ったことがある。二郎左衛門の要求した土地は、先祖大学が伊奈備前守より名主役の「しんろう分」として、除地を許された一町歩の土地の一部であった。その際、石下村孫兵衛(小口家)、八右衛門(吉原家)、鎌庭村右京(現千代川村 人見家)、川尻村新右衛門(現八千代町 赤松家)、沼森村四郎右衛門(同 古沢家)が寄合相談をひらいて二郎左衛門に一町歩のうち三反歩の除地を一代限りで与えることを決定している(増田務家文書)。
 この「相渡し申手形之事」という、二郎左衛門から大学に宛た文書の裏書には、先の小口孫兵衛ほか四名の連署の上で捺印をし、寄合あつかいをもって決めた旨を明記している。
 このように、増田家内部の田地分けという個人的な問題が、同レベルの土豪的有力農民たちが村をこえて寄合をひらくという社会的問題に発展しており、その結果として決定されたことは有力農民相互の承認の上のことであった。このことは村々の有力農民たちが相互に強い結びつきを持っていたことをよくあらわしていよう。
 

Ⅱ-3図 増田家の現況