常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第一章 江戸時代の幕あけ

第三節 代官頭伊奈氏と谷原の開発

慶長十三年(一六〇八)三月十五日、伊奈忠次より「たてかた新田」の「三郎右衛門」は「とよ田谷原」の開発を賞され、屋敷分として「やわら一町歩」を免除されている(和泉清司『伊奈忠次文書集成』)。
 この三郎右衛門とは、つくば市吉沼の飯岡三郎右衛門のことである。吉沼の有力農民であった三郎右衛門は館方新田を開発したが、その新田はどこをさしているのかはっきりしない。ただ、千代川村大園木砂子の飯岡甚氏蔵の寛永七年八月十二日付「下総国豊田庄下妻領大そのき村」検地帳には、三郎右衛門の屋敷分として特別に一冊の帳面が作成されている。それには三郎右衛門の弟にあたる「左門」分として田方四筆「一町七畝三歩」、高一一石六斗余が記されている。左門は大園木村で持高七〇石、除地一町歩を所持している。
 三郎右衛門が伊奈忠次から与えられた屋敷免除地一町歩はこの砂子の左門所持の三郎右衛門屋敷分に該当するものと考えられるが、そうすると、三郎右衛門の開発したのは砂子から館方への一帯ということになるのであろうか。飯岡氏の本家は現在でも大穂町吉沼にあり、分家筋は千代川村大園木の砂子にある。このことは、砂子へは本拠地の吉沼を完全に引き払って移り住んだのでなく、吉沼を主として出先の砂子を開き、そしてそこへ分家筋をおいたことを示していよう。このように旧来の本拠地を持ちつつ開発にあたる方法は、向石下の増田大学や国生の二郎右衛門、新石下の小口孫兵衛などとも共通するものである。