常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第三編 近世

第一章 江戸時代の幕あけ

第二節 石下を支配した領主たち

伊奈備前守忠次は慶長六年(一六〇一)多賀谷重経の改易により、多賀谷領六万石が没収されたあと、幕領となった村々を支配した幕府代官頭である。後述するように当地では慶長十三年(一六〇八)三月に谷原の開発につくした土豪的な在地の有力農民である向石下の大学助や国生の二郎右衛門、館方新田の三郎右衛門などに屋敷地を免除する開発手形を発給し、鬼怒川、小貝川流域の新田開発を進めた。
 伊奈忠次は通称熊蔵・備前守といい、天文十九年(一五五〇)三河国幡豆郡小嶋(現愛知県西尾市)に生まれ、慶長十五年(一六一〇)六月、六一歳で没した幕府有数の地方(じかた)功者である。徳川氏の関東転封直前の天正十七年(一五八九)には駿河・遠江など旧領五か国の検地、知行、年貢収納などの責任者に抜擢され、関東入国後は武蔵国鴻巣・小室領一万石(または一万三〇〇〇石)を給され、足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町)に陣屋を構え、検地や知行割り、利根川をはじめとする河川の改修工事、新田開発に尽力した。また、寺社領や交通制度などの諸政策をも担当した。忠次の行なった仕法は「備前検地」「備前掘」「伊奈流」などとよばれ、のちの幕府の基本政策となっている。さらに、家康の側近として民政全般に参画し、関ケ原の戦い以降はその支配地域が関東から、伊豆・駿河・近江・三河・尾張などの東海地方にまでおよび、徳川権力の政治・経済的基盤の拡充に重要な役割りをはたしたといえる。
 伊奈半十郎忠治は、文禄元年(一五九二)、忠次の次男として生まれた。元和四年(一六一八)兄の忠政の死後代官頭(関東郡代)の地位を継ぎ、足立郡赤山陣屋(現埼玉県川口市赤山)で七〇〇〇石を給され、関東および駿河・遠江・三河の地方支配を行なった。父忠次の仕事を継承し、利根川の改修や荒川の瀬替え事業などを行ない、洪水を防ぎ灌漑治水を促進した功績は大きい。また、慶長十七年(一六一二)以降、武蔵国葛飾郡二郷半領、同国足立郡淵江領などで新田開発の手形を発給し、開発を奨励している。
 当地では、寛永期に忠治の手によって小貝川と鬼怒川の分流工事が行なわれた。寛永十九年(一六一四)には、常陸国筑波郡谷原領三万石の干拓を完成し、あわせて福岡堰(水海道市・谷和原村)、岡堰(藤代町)、豊田堰(竜ケ崎市)を築くなど、関東の開発に功績を残している。寛永十二年には幕府の勘定頭格となり、同十九年にその職を離れ、関東代官の監察と関東の大河川の治水を担当し、支配領域は幕領一〇〇万石に達したという。
 このように忠次に次いで忠治も幕府に重要な地位を占めて、承応二年(一六五三)六月六二歳で没している。石下では、鬼怒川・小貝川の分流工事や谷原の開発に尽力したほか幕領の村々に総検地を実施している。たとえば、寛永七年には関東幕領の総検の一環として、本石下村、豊田村、向石下村、小保川村に、同十年には崎房村に検地が行なわれている。
 

Ⅰ-5図 伊奈の碑(埼玉県伊奈町役場提供)