常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第五章 中世のくらしと文化

第二節 寺社と信仰

千代川村宗道(そうどう)に宗任(むねとう)神社がある。宗道の地名も宗任から来ているとする説がある。社伝によれば、豊田氏の祖とされる豊田四郎平政基(将基とも書くが政幹からの当字か)が前九年の役に従い安倍宗任を討ち、その首を持ち帰り、下総国豊田郡の松岡に埋葬し、宗任大明神として祭祀した。その社はのちに現在地の宗道に移り今日に至ったというのである。しかし、安倍宗任は殺される前に帰順しており、安倍宗任の首を持ち帰って埋葬したということはありえない(『下総国旧事考』一三)。なお「類聚国史」に讒言にあって死去した早良親王の霊を鎮めるために延暦二十四年(八〇一)に崇道天皇と謚(おくりな)し、諸国に小倉を建てさせ、正税四十束を納めさせ国忌としたとあるから、この宗任神社もこの縁によるものであろうとする説や、「和名抄」に下総国岡田郡の四郷の一つに手向郷があり、旧総上・豊加美・宗道・蚕飼村あたりが相当するが、この手向の神=旅向の神、すなわち、道祖神に宗任の名称が由来するという説などがある(吉田東伍『大日本地名辞典』坂東)。また、最初の伝承と関連するものであるが、前九年の役で義家に投降した安倍宗任は京都に送られ、その後は伊予国から九州大宰府に移され、そこで死去したが、その家臣で神官であった松本秀則という人物が、宗任の神託によってその遺骨をもって九州から帰郷の途中日光を経て鬼怒川を下って豊田に着き、黒窠郷(くろすごう)に神社を創建して宗任を祭った。そして黒窠の地が宗道(そうどう)という地名となったというのである(『豊里の歴史』)。
 この宗道の宗任神社の分霊が豊田城跡の近くの椎木(しいのき)というところに祭られ、「宗任神社」「阿倍神社」「阿倍宗任神社」「御代の宮(みがわりのみや)」などと称されてきた。一説には豊田政幹が勧請したものであるとされ、また一説には、豊田城築城に際して分霊したとされ、豊田氏が多賀谷氏と戦うようになって、宗道の神社には参詣できなくなったので、椎木の神社に参拝するようになったので「御代の宮」と称されるようになったというのである。これらの説のどこまでが事実であるか不明であるが、後者の豊田城の縄張りを行なうに際して、宗道より勧請されて来たという説は事実であったかも知れない。城の縄張りを考える場合、寺社と適当な所に配置することは、十分に考えられることであるからである。