常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第五章 中世のくらしと文化

第二節 寺社と信仰

これまでにも幾度か触れたところであるが、寺社とくに寺院と城・館とは深い関係にあったといえる。寺院建立の形には四つある。
 一には、城の中に建立されるものである。
 二には、城が形成され、城下が形成される場合に、そこに建立される場合であり、たとえば、多賀谷氏によって豊田城が新たに形成し直され、新宿が形成されると、そこに建立された竜心寺の場合のようである。
 三には城とは少し離れるが、城に対する一つの館としての役割も持たされて建立される場合。
 四には、もと城・館が存在した場所にのちに建立される場合である。たとえば、向石毛城のあった場所にある法輪寺や石毛城跡に建立された石下八幡宮、それに、古間木城近くのおそらく館があったような場所に、近くの妻亡沼の傍から移ってきたと考えられる歓喜寺や、熊野神社のような場合である。
 そこで、ここでは、豊田城およびその周辺に形成された町と、寺社との関係についてみてみたいと思う。
 豊田城の東側は小貝川であり、対岸下流に豊田氏と関係の深い金村神社があり、また金村の山下には.豊田氏家臣の坪井氏が建立した、随翁院(のちに上郷に移転)が存在したとも伝えられている。
 さて、小貝川の東岸に位置し、金村神社より上流にあるが同社と向き合うような場所に、貴船という小字名があり、おそらく貴船神社があったものと考えられる。船玉を祭る社であるから金村神社と向き合う形で、渡船場のようなものが存在したのではなかろうか。また。小字名を書いた図をみるとわかるように、薬師堂や蔵王堂もあったことが考えられる。
 この場所は豊田城の南に位置する。
 豊田城のあった場所は中城という小字名であり、そのすぐ西に内宿、その北が北宿、それから新宿、下宿、上宿と北上する。この上宿あたりまでが、本豊田である。ここでは小字名から、中城の北側に稲荷社があったことが知られる。そして、新宿に曹洞宗の竜心寺、上宿に時宗の長照寺が存在する。すでに記したように、竜心寺は多賀谷氏の時代にここに移建・改宗された寺院であり、長照寺も、さきに記したように多賀谷氏の時代に移築され、下妻の金林寺の末寺となったと思われる。
 したがって、本豊田の場所は豊田氏時代の形を多賀谷氏が新宿を置くなどして、かなり改めて形成されたものであることが理解できよう。多賀谷氏は、それまでの城下集落と少し離れた所にあった、上宿・下宿の集落との間に新宿を置いて一体とさせ、一つの城下集落を形成させたものと考えられる。そして、長照寺・竜心寺は、宗教施設であるとともに豊田方面から侵攻する敵に対する、防備の館としての役割も担わされたものと考えられる。また、新宿に建立された竜心寺の門前では、あるいは市などが立ち、それまで離れていた城近くの集落と、上宿・下宿の集落とを結びつける役割を果すようなこともあったかも知れない。
 本豊田の北に位置するのが豊田である。ここには、宗任神社、その北に阿弥陀(堂?)、道路を挟んで西側に曹洞宗の宗心院と諏訪社、道路を北上すると観音堂、その北に鷲宮神社、さらにその北に門ノ宮社がある。阿弥陀堂周辺は古くからの葬地であったようである。また、門ノ宮は、より北の館方の一方から入ってくる悪霊や疫病を防ぐ役割を担った神が祭られていたのであろう。また、観音堂や宗心院や宗任神社は本豊田の寺院のように、やはり、北からの侵入を防ぐ館としての役割を担わされていたものと考えられる。なお、宗心院は多賀谷時代以降の成立であるので、この豊田も多賀谷氏の手が入っているものと考えられるが、宗任神社のように豊田氏時代にはすでに存在した神社もあるので、本豊田よりは豊田氏時代の様子を残しているものと考えられるのである。以上のように、城と城下の形成と寺社の建立および配置は、密接な関係にあったといえるのである。
 

Ⅴ-25図 豊田城と寺社関連図