常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第五章 中世のくらしと文化

第二節 寺社と信仰

東昌寺・興正寺門派が古河公方・その家臣の簗田氏との関係や豊田氏の関係を中心に展開を遂げたことはすでに述べたところであるが、つぎに、多宝院(現下妻市)・竜心寺(本豊田)門派の展開についてみておくことにする。まず、松菴宗栄は結城氏の外護を受けて、宝徳元年(一四四九)に建立された乗国寺の開山となっているが、松菴宗栄の弟子である日州幸永は、明応九年(一四九九)に結城氏の重臣であり、独立しつつあった山川氏の外護を受けて、山川の今宿にあった長徳院を曹洞宗に改宗している。乗国寺の二世中明栄主の門弟の少伝宗誾は、結城氏の重臣であったが独立しつつあった下妻の多賀谷家植の外護を受けて、一六世紀前半に多宝院を下妻城の近くに開山している。多宝院三世の祥山随貞は、多賀谷氏の重臣である桐ケ瀬経頼の外護を受けて、元亀二年(一五七一)桐ヶ瀬に正法寺を禅寺に改宗しているのである。このように、松菴宗栄の門派は結城の結城氏・下妻の多賀谷氏の関係を通じて展開を遂げたといえる。そして、多賀谷氏が豊田氏を滅ぼして豊田・石下地域を支配下におくと、多賀谷氏の菩提寺であった多宝院の門派も、この地域に進出してくることになったのである。これが本豊田の竜心寺である。竜心寺はもと臨済宗寺院であったようで、開基は豊田政幹という(安永七年「当山縁由考訂」<過去帳>)。また一方の寺伝では寛治六年(一〇九二)十月の開創とされもとは真言宗であったといわれている。はじめは若宮戸にあったという。寺伝では天正六年(一五七八)五月に豊田氏は多賀谷重経によって滅ぼされたことになっているが、同時に竜心寺も兵火に遭ったといわれている。そこで、多賀谷氏は竜心寺を本豊田の現在地に移転し、自家の菩提寺である多宝院の五世の悦堂欣鷟を開山に迎え、曹洞宗に改宗しているのである(「当山縁由考訂」<過去帳>)。
 竜心寺が古くから豊田氏と深い関係にあったであろうことは、台豊田と称された金村にある別雷神社と同様の同氏に関する伝承を持っており(後述)、同寺があり同寺の檀家が多く居住する本豊田の新宿の村民が、金村の別雷神社の「カギモト」を勤めていることなどからうかがうことができる。しかしこのような慣習が中世以来のものなのかということになると、多くの疑問点が存在することになるのである。
 竜心寺は本豊田の新宿というところにあるが、この新宿は、多賀谷氏が入ってきた時に成立したものと考えられる。すなわち、新宿が成立し、同時に竜心寺が曹洞宗寺院として多賀谷氏の外護を受けて建立されたとみることができよう。したがって、本豊田にあった豊田城は中城その西に内宿、その北に北宿、その北に新宿、その北に下宿、さらにその北に上宿という形は、豊田氏当時の形を引き継ぎながらも、多賀谷氏によって計画され形成されたものである、とみることができよう。
 

Ⅴ-23図 竜心寺

 竜心寺の二世は不山到智で多宝院の六世を勤めた人物であるが、三世には花雲芳春という人物が住持に就いている。この花雲は宗心院を開山している。
 宗心院は豊田にあり、開基は豊田将基(政幹)と伝えるから、竜心寺の末寺となる以前から存在したことになるが、以前の宗派は不明である。多賀谷氏の時代になってから以降に、竜心寺の末寺として曹洞宗に改宗されたものと考えられる。同寺の跡地は現在は、豊田中央公民館として利用されている。
 なお、花雲芳春は慶長十一年(一六〇六)三月、多賀谷三経の外護を受けて太田(現八千代町)に竜昌院を建立しているのである。竜心寺系統の展開が多賀谷氏の援助のもとでなされていったことが、ここにも現れている。
 

Ⅴ-24図 曹洞宗多宝院・竜心寺関係系図