常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第五章 中世のくらしと文化

第二節 寺社と信仰

禅宗には臨済宗のほかに永平寺(福井県)を開いた道元を宗祖とする曹洞宗がある。さきに臨済宗寺院として成立した本石下の興正寺が、のちに曹洞宗寺院として改宗されたことを述べた。東昌寺(現五霞村)の二世である能山聚芸が、開山に迎えられ改宗されたのであるが、ここではまず、東昌寺についてみることにしたい。
 東昌寺を開いたのは即庵宗覚という人物である。彼は最乗寺(現神奈川県南足柄市)を拠点として、曹洞宗としては関東一円に勢力を持った了菴派に属する人物であった。常陸出身の彼は最乗寺の春屋宗能に参学し、その弟子となったのちの永享元年(一四二九)に東昌寺を開山している。これに際しては、山王権現との問答の説話があり、彼が山王権現の信仰圏を取り込んだことが考えられる。のちに足利持氏家臣の簗田持助の父満助が永享十一年に死没すると、持助は父の菩提を弔うためにこの東昌寺に下宮・野渡両郷を与え保護を加えている。以降、同寺はすぐ近くの関宿城を拠点とした古河公方の重臣簗田氏の菩提寺として、その保護と援助を受けていくことになるのである。
 即菴宗覚は東昌寺を建立したのち、奥州に赴き、石川氏の外護を受けて永享八年に長泉寺を開山している。この石川氏は、足利持氏や同安王丸・同成氏・同高基・同晴氏などの鎌倉公方や古河公方からの書状を受けており、また、のちの天文年間(一五三三~一五五五)ごろからになるが、その家臣の簗田晴助などからも書状を受けていて(「角田石川文書」、『福島県史』史料編)、鎌倉公方・古河公方およびその家臣簗田氏と、密接な関係にあったことが理解できるのである。したがって、曹洞禅僧即菴宗覚の活動は、鎌倉公方・古河公方足利氏および簗田氏との関連で、寺院を建立していったとみることができるのである。その後、彼は文安二年(一四四五)には師の春屋宗能が開いた遠江国(静岡県)法泉寺に二世として住し、文明二年(一四七〇)には最乗寺に住し、東昌寺に帰って同十六年十二月十三日に死没している。なお、彼は上野国(群馬県)の宝積寺(甘楽郡甘楽町大字轟)などの開山にもなっている(東昌寺蔵「東昌開山行業之記」や各寺伝等)。
 

Ⅴ-19図 東昌寺山門(五霞村)

 つぎに、東昌寺の二世で本石下の興正寺を開いた能山聚芸(一四四二~一五一二)についてみることにしたい。彼は薩摩国(鹿児島県)藤氏の出身で、父の任地鎌倉で生まれたとされる。一〇歳の時に東昌寺で出家し、その門弟となり師の死後は同寺をついた。文明二年には本石下の興正寺に招かれて、同寺を曹洞宗に改宗した。豊田氏の招きに応じたに相違ない。また、彼は相模国(神奈川県)六浦の地に建立された禅林寺の開山として招かれている。寺伝では明応二年(一四九三)の成立となっているが、開基が足利持氏となっている。しかし、持氏は能山聚芸が生れる前年の永享十一年に死去しており、おそらく供養のための建立であったのであろう。いずれにしても同寺の建立に足利氏が深くかかわっていることが知られる。そのほかに、彼は観音寺(現埼玉県松伏町)の開山にもなっている。永正九年(一五一二)十一月二十六日に七一歳で没している。なお、古河の北方の河港である野渡に満福寺(現栃木県野木町)があるが、寺伝では明応六年(一四九七)の成立で開山は能山聚芸で足利成氏の開基となっているが、実際には、永正年間に足利政氏が成氏の菩提を弔うために、能山を開山に招いて臨済宗寺院を曹洞宗に改宗したものと考えられる。なおこれらの寺院の成立は、野渡や関宿と六浦が、舟運により直結していたことを知らせてくれる。
 以上、東昌寺の開山と二世の略歴をみたが、両人ともに鎌倉公方・古河公方およびその家臣の簗田氏などと、密接な関係を保ちながらその教線を拡大し、寺院を建立していったことが理解できるであろう。本石下の興正寺も、おそらく豊田氏が古河公方勢力との関係の中で曹洞宗への改宗であったとみることができよう。すでに、第三章第二、三節で述べたように、戦国期まで下総国大方郡今里郷(現八千代町)に存在した円福寺が、古河公方の祈願所となって保護を受けていることや、千代川村本宗道の宗任神社が所蔵する「御水帳」には、石下地域の村名も多くみられるが、これらの郷・村が古河公方権力の基盤ではなかったかと考えられることなどからみて、石下地域周辺が、古河公方権力と少ながらぬ関係にあったろうことは想像に難くないところである。豊田氏もこのような中で、古河公方とその周辺の勢力と何らかの関係があったのではなかろうか。しかし、一方では豊田氏が在地領主権力として、この地域に勢力を維持していたのであるから、古河公方勢力とは微妙な関係にあったことも確かであったろう。そのような関係の中で興正寺が、曹洞宗寺院として再興されたということになるのである。