常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第五章 中世のくらしと文化

第二節 寺社と信仰

一四世紀に入ると時宗の展開がみられるが、末期になると臨済禅の展開もみられるようになる。本石下の曹洞宗興正寺の寺伝をみると、曹洞宗として再興される以前の「前開山」として平田慈均という禅僧の存在が知られる。
 この平田慈均という人物は京都東福寺を開いた円爾の系統、すなわち聖一派(円爾の国師号を聖一国師という)に属する人物で、つぎのように連なる。
 
  聖一派派祖
  京都東福寺開山   京都南禅寺開山   筑前禅光寺開山
  円爾      ━ 無関玄悟    ━ 道山玄晟    ━ 平田慈均
 
 彼は鎌倉に生まれ、諸方をめぐり禅の修行をつづけ、京都五山の一つである東福寺の道山玄晟に参じてその門弟となった。二七歳の時に元に渡り、一流の禅僧に参学して帰国した。暦応二年(一三三九)冬に豊後国(大分県)崇禅寺の住持となり、ついで播磨国(兵庫県)円応寺、京都普門寺に歴住し、延文二年(一三五七)には京都五山の上に位置していた南禅寺の住持となり、のちに竜吟庵に退き、貞治三年(一三六四)九月十六日に死去している。
 さて、興正寺の寺伝では、明徳四年(一三九三)の開創で、寺を開いた平田慈均の死没年は宝徳二年(一四五〇)ということになっているが、さきに示したように彼の没年は貞治三年である。したがって、明徳四年の同寺開創が事実であったとすれば、平田慈均が死没してから、同寺が開創されたことになる。おそらく、実際には平田慈均の門弟が開創し、死没していた師を開山第一世としたのではないかと考えられる。勧請開山として、禅宗寺院にはよくみられることである。
 興正寺が臨済宗寺院として成立したのは明徳四年で、南北朝合一の翌年であるが、南北朝期から南北朝合一前後にかけての五山派を中心とする臨済宗の展開は全国的な傾向である。また、室町初期から中期にかけては、地方の臨済宗寺院が幕府より十刹や諸山という資格寺院に列せられ五山派に組み込まれていった時期であり、五山派が勢力を伸展させた時期であった。中でも、聖一派が最多の官寺を持つに至っている。興正寺が聖一派の人物によって明徳四年に建立されたことも、このような勢力伸展の一現象であるとみることができるのではないかと思われる。
 ただし、その後、かなり衰微したらしく、文明二年(一四七〇)には曹洞宗に改宗されているのである。