常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第五章 中世のくらしと文化

第二節 寺社と信仰

さきに(第二章第一~二節)天台・真言両宗を中心とする旧仏教系寺院の展開の中に親鸞およびその門下の展開がみられたことについて述べたが一四世紀に入ると、同じ浄土系の時宗の寺院が建立されるようになる。若宮戸に常光寺が時宗の開祖一遍の法孫である什阿白道によって建立されている。同寺の「過去帳」によれば、開基の什阿白道が死没したのは元応元年(一三一九)八月六日であるので、それ以前の成立ということになろう。
 豊田氏ははじめ若宮戸に拠点を置いたともいわれており、また、のちに本豊田に移転した竜心寺の前身も同地にあったといわれている。若宮戸は蔵持などと同様に地域の拠点となるような所であったと考えられる。その「過去帳」によれば開基什阿白道より七世宿阿弘法までの没年月日は明らかになっており、その七世の没年月日は喜慶二年(一三八七)九月二十日である。
 しかし、八~一〇世は他寺へ移ったとして没年が記されていない。そして、一一世眼阿正永の没年月日は元和五年(一六一九)七月二十六日とある。七世から一一世の没年の間が二三二年もあるのに対して、住持に就いたのが三人というのは不自然であり、しかも没年月日が記されていないのである。一四世紀末から一五世紀末ごろまでは、相当に衰微していて、不明な点が多いのではなかろうか。同寺の再興は一一世眼阿正永が住持に就いた、近世初期以降のことであろう。
 長照寺も同じ時宗の寺院であるが、本豊田の上宿にある。本尊の阿弥陀三尊仏は良弁僧正の一刀三礼の作と伝えられており、かなり古い成立の寺院であったようであるが詳しいことは不明である。いつ時宗に改宗されたのかも不明であるが、山号を豊田山といい、豊田城の北方の上宿にあることから、豊田城との関係は密接なものがあったのではなかろうか。また、天正年間(一五七三~九二)に多賀谷氏が豊田に攻めて来た時に兵火に遭ったが、本尊のみは焼失せず、寺を台豊田に移していたという伝承を持っている。さらに、下妻西当郷の金林寺の末寺となっているところをみると、豊田氏を滅亡させて豊田に入ってきた多賀谷氏が豊田城およびその町割に手を加えたことが考えられるが、その折に同寺の位置等も改められ、現在地に建立されたものと思われる。それは寺院は城の外張や館の役割を担わされ、また、城と密接な関係にある町の住人の葬祭とも深くかかわったからである。
 常光寺・長照寺の歴史には不明な点が多いが。いずれにしても一四世紀以降の展開であったといえよう。
 

Ⅴ-8図 常光寺


Ⅴ-9図 長照寺

 なお江戸初期の寛永十年(一六三三)に成立した「時宗藤沢遊行末寺帳」(『江戸幕府寺院本末帳集成』雄山閣)では、常光寺は清浄光寺(=遊行寺、神奈川藤沢市)の末寺として記載されているが、天明八年(一七八八)成立の「寺院本末帳」(『江戸幕府寺院本末帳集』)では清浄光寺━新福寺━常光寺と、下妻新福寺(下妻市本宿)の末寺とされている。長照寺も常光寺と同様に、江戸初期には時宗の本山清浄光寺の末寺となっていたが、のちには清浄光寺━金林寺━長照寺と、金林寺(現下妻市)の末寺とされている。おそらく、江戸初期にも本寺、末寺の関係はあったのであろうが、それはゆるやかなもので、本山のもとに統制されていたのに対して、しだいに上下関係が明確にされ、厳しい統制のもとに置かれるようになっていたことを、物語っているものと思われる。