常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第五章 中世のくらしと文化

第一節 城と館

所在地 石下町向石下字西館
向石毛(むこういしげ)城は石下駅の西一キロメートル余にある。鬼怒川西岸の台地と低地(往時は沼)が複雑に入り組んだ地形を利用している。台地と低地の比高は五メートル前後である。
 明瞭な遺構としては、台地上にある法輪寺の西側に、南北に走る土塁と、その外側(西側)に添って掘られた空堀(からぼり)(水をたたえぬ堀)があげられる。土塁の長さは約六〇メートル、高さは内側で約二・五メートルある。幅は、往時は基底部で少なくとも数メートルあったと思われるが、後世空堀を掘り広げて民家を建てた際、西側の表面を削り取られたため、全体に狭くなっている。
 昭和四十年作成の都市計画図、聞き取り調査などによれば、これらの土塁や空堀は、近年までは更に南方に延びており、法輪寺のある台地と、そこから西方に突出した「西館」と呼ばれる舌状台地とを完全に遮断していたようである。したがって、往時、土塁と空堀の長さは二〇〇メートルに達したらしいが、現在では南側部分の土塁が消滅し、空堀も過半が埋められている。そして現存する空堀は、長大な堀切の一部ということになる。この堀切と、現在法輪寺の南側を東西に走る道が交差する附近に、「西館」と法輪寺の台地を結ぶ虎口(こぐち)(城の出入り口)があったと思われる。
 つぎに古図によれば、法輪寺の西側の土塁はその北端で東に折れて九〇メートルほど走り、更に南に折れて六〇メートルほど走ったところで消滅していたようである。そして外側には空堀もあったらしい。したがって往時、土塁と空堀は、法輪寺をコの字形に囲んでいたことになる。この形状から推して法輪寺の南側の道路添いにも、往時は土塁と空堀があったことが考えられる。すなわち法輪寺の位置に、土塁と空堀で囲まれたほぼ方形の曲輪(くるわ)(土塁や堀、自然の崖や川などで仕切られた一単位の区域)があったことが考えられるのである。そして、周囲の状況からこれが、向石毛城の主郭(城の中心となる曲輪)に相当すると見られる。西方の舌状台地を「西館」と呼んでいるのも、主郭の西にあたるためであろう。
 ところで台地上に城を造る場合、曲輪は台地の縁に接するように作ることが多い。台地の縁が自然の城壁として利用できるからである。殊に、三方を台地の縁に囲まれた舌状台地の先端部分などは、築城に最適の地形といえる。古間木城、蔵持城などは舌状台地を利用した城の好例である。したがって法輪寺の附近で、純粋に軍事的な目的で城を造る場合、舌状台地の「西館」の西端部分に主郭を置き、そこから東に向かって防御線を築くのが普通である。しかるに現実には、向石毛城の主郭は、わずかにその北西端のみが台地の縁に接するような形で造られており、「西館」はその外側になっている。このことは向石毛城の主郭が、あまり軍事的脅威のない時代に、居館として造られたことをうかがわせる。
 つぎに主郭の北側の空堀は、最初はその北側のみに掘られていたと思われるが、古図によれば更に東に延びており、最終的には北方の台地続きを完全に遮断する堀切になっている。この堀切は近年埋められ、わずかな痕跡を留めるのみである。
 ところで一般に、城の存在時に通路として活用されていた道は、その廃城後も通路として使われる可能性が高い。殊に台地続きに造られた通路は、廃城後も利用されるケースが少なくない。しかるに向石毛城の主郭の北の堀切の場所には、現在、南北の台地を結ぶ道がない。そのため法輪寺から、かつて台地続きであったその北方の台地上に行くためには、最短距離となる堀切のところを通るかわりに、一旦、東か西の低地に下り、そこから北方の台地へ上る道を通らねばならぬようになっている。このことは廃城以前、すなわち城の存在時に、堀城によって台地続きとの往来が完全に遮断されていたことをうかがわせるものであり、地形上、最大の弱点と見られる北方の台地続きを、完全に遮断した背景に、軍事的脅威の高まりが感じられる。
 以上をまとめれば、向石毛城は法輪寺の位置に造られた居館に端を発し、のちに軍事情勢の緊張に伴って、居館の堀の一部を延長拡大し、北方の台地続きと西方の舌状台地「西館」との間をそれぞれ遮断するなどして、堅固な城郭に発達したということになる。ただし主郭を、地形上比較的安全な「西館」の先端部に移さず、北方の台地続きからの攻撃にさらされる法輪寺の位置から最後まで動かさなかったことは、伝統を重んじた結果であろうが、軍事的脅威に対する認識の甘さを示すとも見られる。
 法輪寺の台地の南方に、「峰(弾正台)」と呼ばれる独立した台地がある。地元ではこの台地も城の一部と伝えられている。昭和二十年代までは、その北西の先端部に土塁があったという。法輪寺の台地と「峰」の台地は、本来は現在よりも接近しており、間に橋が架っていたと伝えられているが、法輪寺の台地の南端が大きく削られたため、間隔が広がり、橋の位置も定かでない。また法輪寺の台地の東側には、狭い低地を挟んで台地があるが、この台地の一部が法輪寺の台地に向かって突出しており、橋場と呼ばれている。ここにも橋が架っていたとの伝承がある。さらにその東に大手(おおて)(城の正面のこと)という字名があるから、城の正面は、この方面であったことが考えられる。
 字大手の北は、法輪寺の北方の台地に続いている。この台地上、法輪寺の北東約二五〇メートルのところに一盃館と呼ばれている場所があり、地元では「平政基」の館跡とされている。法輪寺の台地の南東には、「一の塚」と呼ばれるマウンドがあり、地元では遠見の塚とされている。一の塚の北方に鬼怒川添いに「二の塚」「三の塚」「四の塚」の跡と呼ばれる場所かあり、いずれも遠見の塚の跡といわれているが、城郭に付属する遺構としてはあまり例がなく、その用途について検討を要する。殊に「一の塚」は低地にあり、往時よりも低くなっているという伝承を考慮してもなお、見張り場としては意味がないように思える。なお、『多賀谷家譜』に石毛城を居城とする豊田中務が向石毛杉山に子城を構え、「西館」と称したとある。これによれば向石毛城自体が、石毛城の西方の子城として「西館」と呼ばれたことになる。豊田中務の活躍時期(文明年間)と現存する遺構のうち古い部分とは、特に年代的な差が感じられない。ただし法輪寺の北側の堀切や、西館との間の堀切は、年代的に下ると思われるから、中務以後も引き続き使用され、豊田氏多賀谷氏らの抗争の激化に伴い拡張、改修が行なわれ、今日見るような形になったのであろう。
 

V-3図 向石毛城現状図


V-4図 向石毛城旧状推定図