常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第五章 中世のくらしと文化

第一節 城と館

所在地 石下町本豊田字中城
豊田城については、寛政十二年(一八〇〇)の『上郷村明細帳』に「一、上郷村古来之事」として、「往古は台豊田村二有之、豊田四郎政基公御城下、則古城跡は小貝川向、下豊田ニて、西は鬼怒川ヲ囲ひ、北は妙現沼を囲ひ、東大手面は小貝川を囲ひ、唯今以小貝川渇水之節ハ、水中二大手橋杭顕れ此所之字を本橋と号ス」とあり、また「一、古城跡」として「是ハ(豊田四郎政基公ノ城跡、小貝川向、下総国豊田郡下豊田村ニて、只今ハ畑ニ成、其所之字、御城と申候、大手は家中町より通路、右川え橋を懸ケ参候、渇水ノ節ハ、水中二橋杭見へ家中町跡台と申也」とある。現在では遺構は消滅したが、石下駅の南東約二・五キロメートルの字御城の附近に、城郭に関する地名が集中しており、前掲の記事と併せて、ここが城跡と考えられる。
 ここは石下町の東端を北から南に流れる小貝川の西岸にあたる。附近の地形は昭和三十年頃から行なわれた小貝川の改修と、引き続いて行なわれた耕地整理・基盤整備によって大きく改変されており、城の遺構もこれによって消滅し城跡は田、畑、河川敷などになっている。
 今、明治十七年測量の迅速図「本豊田村」などの旧地図と聞き取り調査で地形の旧状を復元し、そこに城郭に関係すると思われる地名を地図に落してみると、城は旧小貝川西岸の自然堤防上の微高地に造られていたことがわかる。東は川、西は沼が自然の要害となっていたであろう。
 城のある微高地は小貝川の旧流路に添ってL字形になっている。中心となるのは字中城附近であろう。その西に内宿、内宿の北に北宿、新宿、上宿という字名が並ぶ。上宿の北は低地になっている。また内宿と中城の南も低地になっている。上宿の北端から内宿の南端まで約六五〇メートルある。中城の北側に堀が廻っており、また内宿の西側にはほぼ南北に堀切(ほりきり)(台地や尾根を切断する形で掘られた堀)が走っている。この堀切の東側すなわち内宿、中城の部分が一応城域ということになろう。この部分は東西約四〇〇メートルある。
 ただし中世城郭の外縁部にある「宿」という地名の場所には、土塁(どるい)(土手)などの防御施設を伴っている例が少ないことや、「宿」が兵士の駐屯地として使用されたことを窺わせる記録が少なくないことと、豊田の地形とを勘案すれば、上宿までを城域と考えることもできよう。
 なお最終的な遺構は戦国時代まで下るようである。
 

V-1図 豊田城付近地籍略図(地形は聞きとりによる)