常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第四章 戦国の争乱と豊田氏の滅亡

第三節 中世の終焉

豊田氏が滅亡したことにより、豊田領は多賀谷氏の支配するところとなった。つぎの史料はその一端を推測せしめる。
 
  石毛市河肥前内五貫文之所、為堪忍分宛行候、一騎之走廻不可致油断候、連々在所へ被帰候者、返上可申
  者也、如件、
  天正六年[戊刁]
       四月十九日□(多賀谷尊経朱印影)
                           石塚将監との
                                     (「秋田藩家蔵文書」一三)
 
 この史料は天正六年四月十九日に多賀谷尊経(重経)が家臣の石塚将監に宛た文書の写であり、「石毛市河肥前内五貫文」とあるように石毛の市河肥前守の知行地のうち、五貫文分を「堪忍分」つまり兵粮料として与え、「一騎之走廻不可致油断候」と合戦における活躍を期待している。また合戦終了後、「在所」(自身の居住地)へ帰ったならば、この知行地を「返上」すべきことを要請している。
 ところで、この文書の日付であるが、天正六年四月十九日であり、豊田治親の殺害が同年五月三日という「多賀谷七代記」の記述を正しいとすると、治親が健在にもかかわらずこの文書が出されていることになる。そこで「市河肥前」は多賀谷・石塚氏にとっては敵にあたるわけであり、そうした敵方の所領を未だ多賀谷氏が手に入れたわけでもないのに、石塚将監に与えられるのかという疑問が生ずるが、これはおそらく多賀谷氏と石塚将監との、合戦前の契約措置ということであろう。
 しかし、この例から推測されるように、他の戦国大名一般と同じく多賀谷氏は、豊田氏滅亡後、給人に豊田方の所領を与えたり、また直轄地にしていくような政策をとったであろうと思われる。そしてそうした政策は、豊田氏を滅ぼした新征服地ということもあって強力な軍事力のもとで推し進められていったのである。