常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第四章 戦国の争乱と豊田氏の滅亡

第二節 多賀谷氏の侵攻と豊田氏

それでは豊田氏は一体どのような地域権力として存在していたのであろうか。戦国期の豊田氏の支配領域は、ほぼ豊田郡の南域であり、前述したように豊田城を中心に長峰・古間木・金村・石毛・向石毛などの支城によって支配されていたと思われるが、そうした実態を示す史料(古文書)が全く伝えられておらず、支配の方式、たとえば土地と農民の支配、商・工業者の統制、給人(家臣)への知行給与とその統制、寺社の支配など全くといっていいほどわからないのが真実である。しかし、大雑把ではあるが豊田氏の有していた権力について豊田氏当主と一族・給人の関係をめぐって考えるとつぎの点が指摘される。
 
 (一)「多賀谷家譜」「多賀谷七代記」によれば、一族豊田中務政治は向石毛城を築き、これを「西館」と称
   し石毛城の支城とし、小田氏の旗下にあったが、多賀谷家植の侵攻により、これにしたがったという。
 (二) 後述するように「多賀谷七代記」によれば、豊田治親は重臣の飯見大膳正によって天正六年(一五七八)
   謀殺されてしまった。
 (三) 豊田治親は長峰原合戦における沼尻又五郎の戦功を賞し感状を与えたという。
 
 以上であるが、まず(一)によって豊田氏の当主が一族の政治的行動を直接規制しえないことが考えられ、(二)によって豊田当主と給人との間に矛盾が生じていたことを指摘できる。また(三)が事実とすれば豊田氏の当主は感状を与える権利を有していたことになる。こうした点から豊田氏当主そのものの権力は、かなり限定されていたと考えられ、豊田氏当主は共通の利害によって、一族・給人を動かすことができたわけで、こうした権力はいわば一揆的なものであったとみることができる。ただ一揆にも盟主(指導者)がいるわけであり、その限りで豊田氏当主は権力の中心だったといえよう。(三)を事実とすれば、それは周囲から代表者のもつ権限として認められていたということになる。すなわち、地域権力としての豊田氏の性格とは、いわば国人(支城主)や土豪の結合による一揆的な権力であり、その盟主が豊田氏であったのである。
 

Ⅳ-9図 豊田城跡