常総市/デジタルミュージアム

石下町史

第二編 中世

第四章 戦国の争乱と豊田氏の滅亡

第二節 多賀谷氏の侵攻と豊田氏

文明年間以降、永禄期にかけての多賀谷氏と小田氏の関係はどうであったろうか。前述したように多賀谷家植は、明応六~七年(一四九七~八)の頃、小田政治と同盟し、鬼怒川周辺で結城政朝と戦い破れている(「結城家之記」)。以後、多賀谷氏は小田氏とともに結城氏に対抗し、小田氏は宇都宮氏とも結んで結城氏に対抗していった。そして多賀谷家植のあとを継いだ家重は、小田政治とともに天文六年(一五三七)正月、結城へ侵攻したが破れている。その後、家重のあとを継いだ重政(朝経)は、天文十七年八月、結城政勝のもとへ出かけ、再び結城氏の旗下に属すことを約したのである。
 

Ⅳ-4図 向石下村絵図(増田務氏蔵)

 これにより多賀谷氏は水谷、山川、小山、真壁などの諸氏とともに小田、宇都宮氏とそれを援護する常陸佐竹氏と対抗するに至る。このように一六世紀半ば、多賀谷氏と小田氏は同盟勢力を異にして明確に対立を深めていった。こうした政治状況のなかで、豊田氏はおそらく一貫して小田氏に与し、また石毛豊田氏は前述したように一時的に多賀谷氏に与したものの、その後は豊田氏と同じ途を歩んだと考えられる。
 弘治元年(一五五五)、結城政勝は北条氏康と好を通じ、小田氏治を打倒すべく援軍を要請した。北条氏は相模小田原を本拠とし、早雲以来、関東に勢力を築いていった新興の大名であり、早雲の孫にあたる氏康は関東南域を征圧し、天文年間後半には関東の中北域への侵攻を進めていた。したがって氏康にとっても結城氏からの援軍要請は、関東北域への進出の契機となるものであった。翌弘治二年四月、結城・北条軍は筑波山の西の海老ケ島で小田軍と対陣し、激戦の末これを破った。小田氏治は小田城へ帰ることができず、土浦城へ入り、一方結城軍は小田城を占領したという(「結城家之記」)。これによって結城氏は「小田領中郡四十二郷、田中庄・海老島・大島・小栗・沙塚・豊田一所モ不残結城作領地」(「結城家之記」)とみえるように、小田領の多くを奪取することに成功した。なお豊田地域が結城支配下に入ったと記されているが、おそらく誇張であろう。この戦に際し、小田氏に与していた豊田氏が援軍を派遣したことは充分に考えられるところであり、また小田氏の敗北は、豊田氏の支配にも大きな動揺を与えたと思われる。しかし、八月の末に小田氏治は小田城への帰城をはたし、結城氏に奪取された小田領の多くを再び取りもどすことに成功し、その後小田・結城氏の抗争は小康状態をつづける。
 一方、結城氏と同盟関係にある多賀谷重政は、天文年間後半には、岩崎、谷田部、小張、板橋、足高、牛久など、小田氏の旗下勢のもとへ侵攻している。これらの地は筑波山の南麓から現在のつくば市谷田部をへて伊奈町、牛久市にあたるため、多賀谷重政による一連の侵攻は、豊田氏の支配領域の東側を迂回して南進したものと考えられよう。この結果がどうなったかは明らかではない。しかし元亀二年(一五七一)には多賀谷重政の孫重経が、小張、板橋、牛久、足高、谷田部等を再び攻めているから、おそらく支配領域の拡大ということにはならなかったのであろう(なお「多賀谷家譜」はこの侵攻を元亀元年としている)。